琉球語の美しさ

序にかえて

琉球語の美しさ

こんな題名で私は一冊の本を書いてみたいと思っている。子供の頃から琉球のことばに無限の愛着を感じた私は、このことばが日一日と滅びつつあるだけに、落日の美しさを惜しむように、じっと琉球語の味をかみしめて来た。我々の祖先の思いのかかった方言である。その血が流れているように感じた。こんな小さな島々に住み、島々の人々のせまい経験しか話すことの出来ないことばではある。教育者は、「琉球方言なんて、那覇の港を出れば通用もしないことばなんだ。早くこんな方言を撲滅して、標準語を普及徹底しなければ。日本本土にわたっても不自由をしないように、又少しもひけ目を感じないように、どこへ行っても堂々と話が出来るようになさい」と教えるのである。もっとも至極なことであるが、ただ忘れてはならないことは方言をおぼえているからと言って、何も共通語の習得には支障はないということである。それは宝でさえありうる。支障がないどころか我々の言語生活を豊かにするし、共通語を習得するにどれほど役立っていることか。方言をすっかり忘れてしまえば共通語が自然に湧いて生れるものではあるまい。それなのに、自分らが母の懐にいた時から習いおぼえたこのことばをあたかも悪質のように体についたあかと感じ、それをおとそうおとそうとつとめて、一切を禁圧しようとする方言撲滅運動は全く理不尽である。それは生爪をきりおとすよりもまだむずかしいことで、全く益のないことであり、劣等感を心の深部まできざむことにしかならない。母の懐の中からおぼえて来たこのことばがどうして悪いのか。私はその理由がききたかった。小学校の頃からそのことに対する小さなレジスタンスを私は持ちつづけていた。私は今帰仁の兼次小学校に通ったのだが、ここでも方言札というのがあった。方言をつかうものはこの札を渡されるのである。札をとった者は休み時間になると血眼になって方言を話すものをさがし廻った。あの札を懐にして、小さい秘密探偵のように、楽しく遊び廻る友人の後からつけねらっていたあの不快を、私は忘れることができない。こんないやな経験といってはなかった。青い芝生の一杯しきつめられた楽しい学園での楽しい休み時間でありながら、誰が自分をつけねらっているか分らないという不安が毎日つづいた。その不愉快にたえかねて、私たちは小学校六年の時一計を案じた。というのは、標準語ではどうしても表現出来ないことがしばしばつづいたからである。最初は何のたくらみもなかったのである。それは、「方言ではねえ」と前置して長々と方言で話した末に「…と言う」と括弧でしめくくることであった。まことに合法的な秘策であった。方言ではねえという条件をつけて、最後にと言うとつけ加えさえすれば、如何なることにも屈することなく、我々は理論的に抗弁できたからである。それで「方言ではねえ」と前置して、十分でも十五分でも方言でいいつづけ、最後「…と言う」とくくるというぬけ道を案出して、陰鬱(いんうつ)な運動場の中でわずかばかりの解放感を味わった。

やがて中学校に通うようになった。金城朝永という級長で、学校全体の方言札を全部一人でとって、そのために処罰されたという小さい武勇伝が語り伝えられていた。私はあの頃から金城先輩に心ひそかに敬意を表していた

単語を集めている。それはいわば沖縄の民衆の生活をのぞく無数の節穴である。私はただその節穴をあけてあるにすぎない。その節穴をあけなければ全く民衆の生活は見えないのである。と同時にのぞかなければ民衆の生活は自然には見えない。小さくてもよいからのぞき穴をあけておくことは必要なのだ。

方言の深さ

母がなくなった日、母は伯母にこうもらされた。「マーマー クーヤ ワヌー ヌーゲーラ ちルーヌ ちマールンネー スン」直訳すると「姉さん 今日は 私 どうしてかしら 血管が ちぢまるような気がする。」という意である。しかし、この訳などでは、とうてい私の悲しみはわいてこない。全くそらぞらしいうつろなことばになってしまう。からからと音をたてて鳴っているようなひびきしかしない。母から伯母は実兄のつれあいであり、姉であった。実兄を早くなくして、やもめになり、一人の息子を育てた愛情にみちた姉であった。何でもうちあけ、またどんなことでも聞いてくれた姉であった。実姉や実妹を早く失っていたので、実姉以上に親しみを持ち、すべてをたよりにしていたのであった。病気して床に臥すようになってからは、姉の家にやっかいになっていたのである。死の近づいて来たときに、母はマーマーと呼びたかったのである。伯母はすでにただならぬ気配を感じたにちがいなかった。ワヌーは私である。私ということばは、母は全く知らなかった。小学校も出ておらず、教科書を手にしたこともなく、文字一文字もおぼえていなかった母は、わたくしという標準語は知らなかった。自分をあらわすには、ワヌーしか知らなかった。その中に母が息づいていた。私は母の懐の中でこのワヌーということばをはじめてきき、そうして完全に自分のものにしたのである。母のワヌーということばの中には、世の誰でもない、私の母をさすワヌーのひびきがこもっていた。その声は何人の声でもなく、まさしく私の母の声で発せられるワヌーであったのである。クー<きょう>も、いつでも誰でもつかっているようなクーではなく、大正九年四月九日のクーであったのであり、幾万年と日本人がつかってきた無限の今日の中の只一回のクーであったのであり、悠久の過去から流れつづいてきた命の緒のきれようとするクーの日であったのである。ちルーは血管の青くふくらみ上がったすじである。母の指さきには、青黒い入墨がしてあった。乙女心に入墨へのあこがれを持っていたらしい。腕にときどき力をこめるとき、青黒く筋があらわれることがあった。私は腕にだかれながらそれをみつめもしたし、さわってはじめてむくむくと流れているものを感じておどろいたこともあった。自分の腕にも全く母の脈と同じような脈が流れていたことを感じて、母へのつながりに気がついた。そのちルーがヌーゲーラ<何かしら>ちマールンネー スン<ちぢまるような気がする>と、母は伯母にもらしたのである。そのときの母の力のない眼も、それを聞いて、おそれをおさえていた伯母の眼も私にははっきり見えるような気がする。母は命の消えようとする前兆がもう体の中にあらわれたのをはっきりと感得して、そっと伯母にもらしたのである。母の命はその前兆通りに脈はゆるみ、流れの引くように消えた。命の消えるのは、潮の満ち干と深くかかわっていると母などは深く信じていた。天体の運行のように、人間では抗しがたい力にひかれて、死んでゆくことを母ははっきり感じたにちがいないのである。マーマーということばも、きっと最後の別れをつげる愛情をこめた呼びかけであったにちがいない。潮のひくようにひいて行く自らの生命をいとおしみつつ姉にすがり、どうにもとめようもない運命のかなしみを母は、かすれつつある声で語ったにちがいなかろう。これは、誰の声でもなく母だけの持っている声であったのである。私の母が地球上に発したたった一度の最後の声であったし、ことばであった。ことばを厳密に同じように二度発することは、人間世界ではありえない。たった一度だけ、発しては消え消えては発してゆくのが、人間のことばである。母が最後に発したそのことばは、私一人にしかわからない。深く深く私の心に残りそうして消えて行く。ことばというものはそんなものである。方言はそれを用いる人々に無限の深さを伝えながらたえず消えて行く。
▶原稿に(一九八一・五・一一)の記述あり

古いことばと新しいことば

ことばはかつて我々の祖先が、喜びを、悲しみを、その事実を語り伝えたことばかと思うと、森の中に朽ちている落葉の如くうらがなしい。私はふと枝について陽光を浴びている青葉をじっと眺めた。実はこの一葉一葉がやがて枯れて秋風に吹かれて落ちて行く。そうして朽ちてしまう。この地球上には幾億幾万の生物の死骸がつもっている。いやほとんど多くはこの死骸の堆積であって、その上にわずかに生命のあるものがうごめいているにすぎない。一切の生あるものはかく枯葉のようにおちて行く。時々刻々変化しつつあるこの生命はただ、一瞬一瞬変化を遂げて行く。瞬時もとどまることを知らない。我々のことばといえども決して、変化もなくして久しくとどまることはない。絶えず変化しつづけているのである。今自分が方言の蒐集をしつつあるというのも実は決して枯葉をあつめているのではないのである。わずかに実存しているもの、それをたよりにすれば、消えて行ったものの行くさきがうかがえるものをつかんでいるのであり、それこそ生への深い執着にもとづくのであり、深い生命感に通ずるものではあるまいか。新しい語を研究することと、古い語の研究と、根本的な差異があるのであろうか。新しい語といえども一度しか存在しなかったものであり、一回一回その度に滅亡してしまったものである。それを観察した時は古いことばも新しいことばももうなくなるのではあるまいか。

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