石崎公曹の奄美のことわざ

「く」から始まる言葉

化物の 火盗り

クィームンヌ マツィトゥリ

kϊːmuNnu ʔmacϊturi

河童のあかりうばい

人の話をよこどりすること。人の話の腰を折ること。河童に似た奄美の化物キームンは道行く人の灯りを横合いからとつぜん瞬時にしてうばいとってしまう習性をもつ。人が話をしているときにたびたび横合いから話のすじを奪ったり、結末を言ったりして邪魔する者に対し「~zjaga」という。


声言葉や 銭金や いらん

クイクトゥバヤ ジンカネヤ イラン

kui-kutubanaNja ziNkaneja ʔiraN

言葉にはお金はかからぬ

人をほめたり、お世辞を言ったりしても別にお金はかからぬではないか。相手がこころよく思うようなことばをいくらでも言えばよいのだ。本土の「言葉に物はいらぬ」「口に物はいらぬ」と同じ。


クィヌ ホデリヤ オブラサズィ、チュヌ サキヤ ワカラズィ

発音英語

和訳

解説


木ぬ 曲がりや 使われっか 人ぬ 曲がりや 使わらん

クィーヌ マガリヤ ツィカワレッカ チューヌ マガリヤ ツィカワラン

kϊːnu magarija cϊkawareqka ʔcjuːnu magarija cϊkawareN

木の曲がったのは使えるが、人の曲がったのは使えない


木芽ぬ 時や 雨ぬ 降りゅん

クィブツィムィヌ トゥキヤ アムィヌ フリュン

kϊbucϊmϊnu tuʔkija ʔamϊnu hurjuN

木の芽立ちの時期には、雨が降る

奄美本島では旧二月から三月へかけて、山々の木々が一斉に芽ぐむ。そのころには、かならず雨が降る。


倹約や 有ん うち

クィンヤクヤ アン ウチ

kϊNjaʔkuja ʔaN ʔuci

倹約は、物資があるうちにしておくものだ

倹約はものがゆたかにあるうちにするものだ。窮乏してから、「ああ、あのころ、倹約しておけばよかった。」などと嘆いてみても仕方がない。


肥牛ぬ子や 肥えん

クェ―ウシヌ クヮヤ クェン

ʔkwёːʔusinu ʔkwaja ʔkwёN

肥えている牛の子は、その母牛に似て肥える


返しや 荒々と

クェーシヤ アラアラートゥ

ʔkёːsija ʔaraʔaraːtu

お返しは、多すぎるほどに

贈与品に対する贈答品は、多めにしてやるのがよい。もらった物のお返しは、相手がおどろくほどたくさんしたほうがよい。


黄金手 遊ばすな

クガネディ アスィバスナ

kuganedi ʔasϊbasuna

黄金の手をあそばすな

貴重な手をむだに過ごさすな。その手を使って仕事をせよ。※猫の手でも借りたい多忙なときに、なんにもせず突っ立っている人にいう。


腰 退ちゃんてん 後 退くな

クシ ヒチャンティン シリ ヒクナ

kusi hiʔcjaNtϊN siri hiʔkuna

腰はひいても、後へはひくな

たとえ腰は退いても、相手をおそれて、臆病になってはいけない。


クジキヌ ティー ハカシュン

kuziʔkinu tϊː hakasjuN

和訳

解説


杖に たんげたんてん 人んに たんげんな

グシャンニ タングェタンテン チュンニ タングェンナ

gusjaNni taNgёtaNteN ʔcjuNni taNgёNna

杖には頼っても、人には頼るな

この世で、いざというとき頼りになるのは自分自身以外にだれもいない。安易に人を頼ろうとしてはいけない。


九十月ぬ 月や 台所 三回り 回りきらん

クジュグヮツィヌ ツキヤ シロホ ミムェグリ マワリキラン

ʔkuzjugwacϊnu cϊʔkija siroho mimёguri mawariʔkiraN

旧暦九、十月は、すっかり日が短くなって、台所の中を三回歩いてまわることもできない

台所でうろうろ立ち働いているうちに、はやくも日が暮れてしまう。本土の「十月の昼間なし」、上総地方の「十月の中の十日には釜のまわりを七回りすれば日が暮れる」と同じ。


クジュグヮツィヌ ナギドゥ

発音英語

和訳

解説


クストゥヤ ウニンクマ ウトゥルシャン

kusutuja ʔuniNkuma ʔuturusjaN

和訳

解説


東風 まにしと 女ぬ子ぬ 長もたえや 物破りぬ 元

クチ マニシトゥ ウナグヌ クヮーヌ ナガモタエヤ ムンヤブリヌ ムトゥ

kucinu manisitu ‘unagunu ʔkwaːnu nagamotaʔeja muN’jaburinu mutu

東風がいつまでも長らく吹いて停滞し続け、娘がいつまでも長く家に居残る(行かず後家になる)と、すべての調和がくずれてしまう原因になる。

春のころ、気候不順となれば畑作に影響があり、行かず後家がいると、家庭がごたごたをおこすものである。


口急がしゃや 世帯 つぶし

クチイショガシャヤ ショテ ツィブシ

ʔkuciʔisjogasjaja sjote cϊbusi

口をいそがしく動かして、しゃべりまくってばかりいる女は、世帯をつぶしてしまう

しゃべりすぎる女には世帯はもてぬ。


口ぎょらさんや 心 見い

クチギョラサンヤ コロ ニ―

ʔkucigjorasaNja koro niː

口先じょうずな人の心の底を見よ

おべんちゃらをいってほめる人に対しては、どんな下心があるのかと用心しなければならない。本土の「ほめる人にはゆだんすな」「美言真ならず」に類する。


口と 金入れや 締めりゅんが 得

クチトゥ カネイルィヤ シムェリュンガ トゥク

ʔkucitu kaneʔirϊja simёrjuNga tuʔku

口と財布は、締めておくのが得策

口をひらきすぎると災いのもとにもなるし、財布のひもをゆるめると、金は羽が生えてとんでいく。おしゃべりとむだづかいはつつしめ。本土の「口と財布はしめるが得」「口と財布は閉ずるに利あり」と同じ。


口と 手と 商い

クチトゥ ティートゥ アキネ

ʔkucitu tїːtu ʔakine

口ではしゃべり、手では舞って、あたかも口と手が互いに商行為をしているような話し方はするな

※奄美では昭和前期ごろまで、ゼスチャーをまじえて話すことは、真実味のない人のすることとして好まれなかった。


口なん 荷 持たすな

クチネン ニー ムタスナ

ʔkucineN niː mutasuna

口に 荷を 持たせるな

→口にしゃべるという責任を負わせるな。→口をそっとさせておけ。→口をつぐめ。余計なことはしゃべらないように、口をつぐんでおれ。


口ぬ 動きゅん 女や 手や 動かん

クチヌ ウゴキュン ウナグヤ ティーヤ ウゴカン

ʔkucinu ʔugokjuN ʔunaguja tϊːja ʔugokaN

おしゃべりばっかりする女は、手は動かさない

口でおしゃべりばかりしている女は、仕事のための手は動いていないものである


口八丁 手八丁

クチハッチョ ティハッチョ

ʔkucihaqʔcjo tϊhaqʔcjo

弁も立つが、腕も立つ

話もうまいし、仕事もうまい。本土の「口八丁 手八丁」「口も八挺 手も八挺」と同じ。


口や 鼻にし 持て

クチヤ ハナニシ ムティ

ʔkucija hananisi mutϊ

口を鼻のようにせよ

鼻はものがいえない。口も鼻のようにしずかな存在であれ。多言をするなという戒め。本土の「口をもって鼻とせよ」と同じ。


口ら 先 生まれたん 子

クチラ サキ マーレタン クヮ

ʔkucira saʔki ʔmaːretaN ʔkwa

口から先に生まれた子

口を先にして生まれでた子。ひじょうにおしゃべりする子ども。10歳から13、14歳までの言語形成期に、ひときわおしゃべりをする子がでてくる。そういう子を評していう。


牡牛と 男ぬ 子や 人んにん 呉れるな

クティトゥ ヰンガヌ クヮーヤ チュンニン クルィルナ

kutϊtu ‘iNganu ʔkwaːja ʔcjuNniN kurϊruna

牡牛の子と男の子は、人にはやるな

牡牛は力があり、農耕や運搬には農家ではなくてはならない家畜である。また、男の子は成長して、かならず立派な働き手になるのだ。クルィルナ[kurEIruna](呉れるな)は、クルィンナ[kurEINna] ともいうことがある。


言葉しど 人に 好かりゅん

クトゥバシドゥ チュニ スィカリュン

kutubasidu ʔcjuni sϊʔkarjuN

言葉づかいによってこそ、人に好かれるのだ

ことばの使い方がじょうずであれば、人に好かれるようになる。本土の「物は言いよう」に類する。


クニナンヤ ヌシド ヤーナンヤ ネズィン

発音英語

和訳

解説


小盗人や 家倒れ

クヌスィドヤ ヤ―ドーレ

kunusϊdoja ‘jaːdoːre

小盗人は、家を倒す

小盗人は少しずつ盗んでいくので、家の人には気づかれない。気づかれなければ、絶えず盗みにくるので、ついにはその家を破産させてしまう。いささか大げさな表現であるが、こそ泥には充分注意しておけということわざであろう。


倉ぬ 米 たべんくま 一人ぬ 口 引け

クラヌ クムィ タブユンクマ チューリヌ クチ ヒクィ

ʔkuranu kumϊ tabujuNkuma ʔcjuːrinu ʔkuci hiʔkϊ

倉の米を惜しがっているくらいなら、ひとりの食い扶持を減らせばよいのだ

倉の中の米がそれほど惜しいものなら、家族のひとりを減らすことだ。


クユクヌ フーゾン

kujukunu huːzoN

和訳

解説

子 生し 親ぬ 事 おもゐ

クヮー ナシ、ウヤヌ クトゥ オモウィ

ʔkwaː nasi,ʔujanu kutu ʔomowϊ

子を生んで、親のことを思え

分が子を生んで、はじめて親のことに思いをいたす。子どもをつくってはじめて自分を育てた親の情愛がわかるのである。本土の「子をもって知る親の恩」と同じ。


子生しと 船旅や 忘れりゅん

クヮーナシトゥ フナタビヤ ワスレリュン

ʔkwaːnasitu hunatabija wasurerjuN

和訳

解説


子生し貧乏

クヮーナシビンボ

ʔkwaːnasi-biNbo

子どもを生んでの貧乏

子どもをつきつぎと生むがゆえの貧乏。子宝貧乏。貧乏人の子だくさん。


クヮーニバ ウヤヌ ワカリュン

ʔkwaːniba ʔujanu ‘wakarjuN

和訳

解説


子ぬ 親 思ゆんや 牛ぬ 角ふど

クヮーヌ ウヤ オモユンヤ ウシヌ ツィノフドゥ

ʔkwaːnu ʔuja ʔomojuNja ʔusinu cϊnohudu

子どもが親の身を案ずるのは、牛の角(一度か二度)ほど

前出0147と対句としても用いられる。親が子を思うのは牛の毛の数ほどであるが、子が親を思うのは牛の角ほどである。


子煩悩ぬ 無んば 親煩悩も 無ん

クヮーボンノヌ ネンバ ウヤボンノモ ネン

ʔkwaːboNnonu neNba ʔujaboNnomo neN

親が子どもに対する慈悲の情をもたなければ、子どもが親に対する思慕の情をもつはずはない

わが子を憎む親は、わが子に憎まれる


子守り 歌とど 子や 育ちゅる

クヮーモリ ウタトゥドゥ クヮーヤ スダチュル

ʔkwaːmori ʔutatudu ʔkwaːja sudaʔcjuru

子守歌によって子どもは育つのである

母の子守歌を聞いて、幼な子は情緒ゆたかに育っていくのである。


クヮーモリ スルィバ アダノ ヤーガルィ マワリュン

発音英語

和訳

解説


クヮーヤ ウヤヌ オンカブリ

ʔkwaːja ʔujanu ʔoNkaburi

和訳

解説


クヮーヤ ウヤヌ クヮードゥ ナリュル

ʔkwaːja ʔujanu ʔkwaːdu narjuru

和訳

解説


子や いくたり 生しゃんてん 肝魂 付けてや 生さらん

クヮーヤ イクターリ ナシャンテン キモタマシイ ツィキティヤ ナサラン

ʔkwaːja ʔikutaːri nasjaNteN ʔkimodamasi cϊʔkϊtϊja nasaraN

子どもを生むには生むが、知恵才覚まで付けて生むわけにはいかぬ

知恵才覚は本人の修行によって身につけるべきものだ。本土の「形は生めども心は生まぬ」と同じ。


子や 慣らしぬ むん

クヮーヤ ナラシヌ ムン

ʔkwaːja narasinu muN

子どもは躾け次第

子どもは家庭でのしつけが大事。正しくしつければ、けじめのわかるよい子になり、放任すれば、粗野な、わるい子になる。


子や 干し殺しや 無ん、詰み殺しど 有る

クヮーヤ フシグルシヤ ネン、ツィムィグルシドゥ アル

ʔkwaːja husigurusija neN,cϊmϊgurusidu ʔaru

子どもは、ひもじい思いをさせても餓死することはない。反対に腹いっぱい詰め込みすぎて死ぬことがある。


クワリぬ野菜や 嫁んじ 食まさらん

クヮーリヌヤスェヤ ユムィンジ カマサラン

ʔkwaːrinu’jaseja ‘jumϊNzi kamasaraN

里ズイキは味噌汁に入れるととてもおいしいので、嫁なんぞには食わせられぬ

里ズイキの味噌汁のおいしさを強調することわざ。


クヮギィヌ ミシゲ

ʔkwagϊnu misige

和訳

解説


火事ぬ 跡や 生ぇんば、食みぬ 跡や 生ぇらん

クヮジヌ アトヤ ムェンバ、カミヌ アトヤ ムェラン

ʔkwazinu ʔatoja mёNba,ʔkaminu ʔatoja mёraN

火事の跡は再生していくが、食い倒れ(倒産)の跡は再生できない

火事にあった家は立ち直ることができるが、一族で食い潰した家は立ち直ることができない。


クヮジヌ トゥキヤ ユキカマ サキ イジャスィ

ʔkwazinu tuʔkija juʔkikama saʔki ʔizjasuN

和訳

解説


元旦ぬ 起りや うん年ぬ 起り

グヮンタンヌ フィーリヤ ウントゥシヌ フィーリ

gwaNtaNnu hwϊːrija ʔuNtusinu hwϊːri

元旦の起床(時刻)が、その年一年間の起床(時刻)になる

元旦の起き方がその年の起き方になる。元旦は身を清め、若水を汲み、家内一同初日を迎えて三献の祝いをする。そのためには早起きをしなければならない。あたりまえの、ふつうの家なら、みんなそうしているはずである。もし、そういう良き慣例に反して、だらしなく朝寝などしようものなら、その家の者は、その一年間ずうっと、だらしのない寝すごしの朝を迎えることになろう。

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