石崎公曹の奄美のことわざ
「き」から始まる言葉
気 ゆるしば 怪我ぬ 本
キー ユルスィバ キガヌ ムトゥ
ʔkiː ‘jurusϊba kϊganu mutu
気をゆるせば怪我のもと
注意を怠るから怪我をするものだ
木や 木ん中 人や 人ん中
キーヤ キン ナハ チュ―ヤ チュン ナハ
kϊːja kϊN naha ʔcjuːja ʔcjuN naha
木は木の中で育ってこそ良材、人は人の中でもまれてこそ逸物となる
杉などは杉林の中でこそ、すくすくと真っ直ぐに伸びて良材となり、人は多人数の中で鍛えられてこそはじめてよき人材となる。本土の「麻につるるよもぎ」「麻の中のよもぎは直し」に類する。
北枕や しらんむん
キタマクラヤ スィランムン
ʔkiʔtamaʔkuraja sϊraNmuN
北枕はしないもの
北枕は禁忌。北枕は死人にさせる寝かせ方であるから、日常生活で寝るとき北の方へ枕をおいてはいけない。※本土と同じく、人が死ぬと北枕に寝かせる風習がある。現時、日常では禁忌としているが、当彦千代氏(明治15年生)によれば、生涯唯一の安楽な方位に身を横たえるのだ、日常それをしてはいけないと。本土の「北枕で寝るな」「北枕は死んだ人に限る」と同じ。
獣 頓着 しらん 人や 嫁 とんな
キダムン トゥンジャク スィラン チューヤ ユムィ トゥンナ
kϊdamuN tuNzjaʔku sϊraN ʔcjuːja ‘jumϊ tuNna
生きものを大事にしない女を嫁にとるな
飼っている生きものに心をかけぬような女を嫁にしてはならない。生きものに情けをかけてこそ女の優しさがあるのだ。冷酷な女は嫁にはできぬ。トゥンナ[tuna](取るな)は、トゥルナ[turuna]ともいうことがある。
ぎなさりん時ぬ 難儀や ほでてぬ 薬
ギナサリントゥキヌ ナンギヤ ホデティヌ クスリ
ginasariNtuʔkinu naNgija hodetϊnu kusuri
幼い時の難儀は成長したあとの薬
小さいころの苦労は大きくなってから楽をもたらす。人は少年期に苦労してこそ、はじめて立派になる。
昨日や 人の上 今日や 吾が上
キヌヤ チューヌ ウィ チュ―ヤ ワガ ウィ
ʔkinuja ʔcjuːnu ʔwϊ kjuːja ‘waga ʔwϊ
昨日は人の身の上のことと思っていても、今日はわが身の上のこととなる
不幸や病災についていう。昨日は不幸が他人のことだと思っていても、今日は同じ不幸が自分のことともなるのである。「今日や人ぬ上、 明日や自分の上。キューヤ チュヌ ウィ。アシャヤ ドゥヌ ウィ。kjuHH’ja qqcjunu qqwEI. qqasja’ja dunuqqwEI.」ともいう。本土の「今日は人の上 明日はわが上」「人のことはわがこと」と同じ。
きばりば 強飯 遊びば やら飯
キバルィバ コワバン アスィブィバ ヤラバン
ʔkibarϊba kowabaN ʔasϊbϊba ‘jarabaN
精出してがんばった者には強飯(こわめし)を、怠けて遊んだ者には水っぽいめしを
よく働いた者には、腹にもつ強飯が与えられ、怠けた者には、腹にもたないやわらかい飯が与えられるのだ。
帯 ふっち ゆむた 言い
キビ フッチ ユムタ ユン
ʔkibi huqʔci ‘jumuta ‘juN
帯を解いて、くつろいでものを言うがよい
緊張のしっぱなしでものをいってはいけない。人との対話は帯を解いて、胸をひらいて、くつろいだ状態でするものだ。
肝 急かば 手 引け
キモ スィカバ ティー ヒクィ
ʔkimo sϊʔkaba tϊː hiʔkϊ
感情が高まってくるならば、自分の手をひけ
怒りがこみあげてくるようなら、暴力をふるおうとする自分の手をじいっと押さえよ。怒りにまかせて手出しをしてはならぬ。前出「意地ぬ出じりば手引け」とも。
肝強さ 持てば 後や 自分ど 泣きゅり
キモゴワサ ムティバ アトヤ ドゥードゥ ナキュリ
ʔkimogowasa mutϊba ʔatoja duːdu nakjuri
無慈悲な心を持てば、あとで自分が泣くことになる
人に情けも思いやりもかけず、冷酷な態度で世の中を渡ろうとする者は、あとで自分が冷酷な目にあわされて泣くときがくる。
肝高さ 持てば 他所に 憎まりゅり
キモダーサ ムティバ ユスニ ニクマリュリ
ʔkimodaːsa mutϊba ‘jusuni niʔkumarjuri
気位が高いと世間から憎まれる
自分は、ほかの連中とはちがう、ほかの連中よりはえらいなどと考えて世渡りをしていくと、いつかはみんなから鼻もちならぬと嫌われるようになるものだ。
肝曲がりや 無ん 腹曲がりど 有ん
キモマガリヤ ネン ワタマガリドゥ アン
ʔkimomagarija neN ’watamagaridu ʔaN
悪心はだれも持たぬ。空腹があるだけだ。
人間には本来、邪悪な心はないのだ。盗人も腹をすかし窮乏しているからこそ、盗みを働くのだ。本土の「飢えたる犬は棒をおそれず」「貧すれば鈍する」に類する。※「腹曲がり」とは腹黒い者、邪悪な者の意であるが、このことわざでは肝(精神)と腹(胃袋)とを対立させて用いている。
喜界旅 しゅんくま 麦ぬ 穂 三つ 摘め
キャータビ シュンクマ ムギヌ フ ミーツィ ツィムィ
ʔkjaːtabi sjuNʔkuma muginu hu miːcϊ cϊmϊ
喜界島への旅をするくらいなら、麦の穂を三本摘め
喜界島への旅をして金とひまを無駄にするくらいなら、自宅でくつろいで麦の穂の三本も摘んだほうがましだ。※旅にかける金とひまを惜しむことわざであって、喜界島が見る価値がないというのではない。そのむかし、北部大島では喜界島への旅行が気晴らしの旅であったようである。
兄弟や 他人ぬ はじまり
キョーデヤ タニンヌ ハジマリ
kjoːdeja taniNnu hazimari
兄弟は他人のはじまり
もっとも近い血族の兄弟でさえも、それぞれが家族をもてば、妻子への愛にひかれて、いっしょに育った肉親への情愛もうすれ、他人とかわらなくなってしまう。本土の「兄弟は他人のはじまり」「兄弟は他人の別れ」と同じ。
美らさしや 物や 食まらん
キョラサシヤ ムンヤ カマラン
kjorasasija muNja kamaraN
美しさだけでは、食っていけない
容姿の美しさだけでは、この世は渡れない。
きょらさん妻 持たんゐんま 作 しむて 後 見い
キョラサントゥジ ムタンヰンマ サク スィムティ アト ニー
kjorasaNtuzi mutaN’iNma saʔku sϊmϊtϊ ʔato niː
美人妻を持とうとするよりは、農耕をさせて、その鍬使いのあとを見るがよい
妻を選ぶには美人ばかりを求めるのではなく、鍬のつかいかたのよしあしで選べ
きょらむんと 同士じゃれや 他島縁 結びゅん
キョラムントゥ ドゥシジャレヤ タシマヰン ムスィビュン
kjoramuNtu dusizjareja tasimaiN musϊbjuN
美人と友達遊びをよくする者は、異郷の人と縁を結ぶことが多い
いい女もいい男も同じ村の人とは結ばれず、なぜかほかの村の人と結婚する傾向がある。
きょらむんぬ 一癖
キョラムンヌ チュークセ
kjoramuNnu ʔcjuːʔkuse
美人のひと癖
美人の顔にだまされてはならぬ。美人にもあくどい癖がひとつはあるものだ。本土の「顔に似ぬ心」に類する。
きょらむんぬ 一花
キョラムンヌ チュハナ
kjoramuNnu ʔcjuhana
美人はひと花のいのち
美人は、ひときわ美しく咲いて、すぐしおれてしまう花のようなものである。本土の「美人の終わりは猿になる」に類する。
美人や 食まらん
キョラムンヤ カマラン
kjoramuNja kamaraN
美人というだけでは、食べてはいけない
心の持ちようで、この世間には生きていけるのである。この世間を生きて渡るためには、顔の美しさは問題ではない。精神の持ちようが肝じんなのだ。
着物 買いや 襟 見い
キン コイヤ エリ ニー
ʔkiN koʔija ‘jeri niː
着物を買うなら、まず襟の仕立てかたをよく見よ
着物の仕立ては襟がいちばん肝要。着物をえらぶとすれば、第一に襟を見るがよい。
着物無し者ぬ 袖振り
キンナシムンヌ スディフリ
ʔkiNnasimuNnu sudihuri
満足な衣装も持たないおちぶれ者が、なけなしの着物を着て、これ見よがしに袖を振り振り歩く