石崎公曹の奄美のことわざ

「か」から始まる言葉

顔持ちなんど 福や 有ん

カオムチナンドゥ フヤ アン

kaomucinaNdu huja ʔaN

相好にこそ福があるのだ

いつもにこやかに笑顔で応対する人には幸運がくる。


影姿や 食まらん 人や 肝心

カグェスィガタヤ カマラン チュヤ キモグクル

kagёsϊgataja kamaraN ʔcjuja ʔkimoguʔkuru

容姿のよさだけでは、食べていけない

人間は精神が肝要なのだ。顔かたちだけでは、この世は渡れない。この世を渡るためには、精神の持ちようが大事なのである。


隠しぐとや 洩れやっさ

カクシグトゥヤ ムルィヤッサ

kaʔkusigutuja murϊjaqsa

隠しごとはもれやすい


隠しゅんくさ 見ちゃさ なりゅり

カクシュンクサ ニッチャサ ナリュリ

kaʔkusjuNʔkusa niːqʔcjasa narjuri

隠そう隠そうとしているものこそ、見たいし聞きたい

衆目から隠したい、秘密にしたいとしているものを、人々はかえって見たがり、聞きたがるものである。


隠れ礁や 舟と 仇

カクルィスィヤ フヌィトゥ アダ

kaʔkurϊsϊja hunϊtu ʔada

暗礁は、舟とかたき同士の関係にある(直訳)

海中にかくれている岩は舟にとっては仇なす敵である。


カズハラヌナキバ アム

発音英語

和訳

解説


肩落て衣ぬ 腕しぐり

カタウティギンヌ ウディスィグリ

kataʔutϊgiNnu ʔudisϊguri

肩のあたりがだらりとさがった、見るからに古い着物を着たおちぶれ者が、腕まくりをして虚勢を示す

おちぶれ者が気分だけは残っていて、残念がって気勢を示すことをいう。本土の「ごまめの歯ぎしり」に類する。


片手とや 音や 出じらん

カタディトゥヤ ウトゥヤ イジラン

katadituja ʔutuja ʔiziraN

両手を打ってこそパンと拍手の音は出る

片手では音は出ないのだ。両者ともに悪い、けんか両成敗のときに用いる。


肩ぬ 荷 うるしゅて 言葉 言い

カタヌ ニー ウルシュティ クトゥバ イー

katanu niː ʔurusjutϊ ʔkutuba ʔiː

肩の荷をおろして、ことばを言いなさい

すっかりなにもかもぶちまけて、気が楽になるよう申し述べなさい。ああいえば自分の立場が不利になるとか、こういえば第三者の迷惑になるとか、右顧左べんしながら申し述べるのではなく、そんな心配は肩からおろして思い切ってなにもかも申し述べるがよい。


カタワドゥ ウヤヤ ハナシャン

発音英語

和訳

解説


食でど 侍

カディドゥ サムレ

kadidu samure

食足りてこその侍である

食が足らねば侍とはいえぬ。食禄があり、食うことができてこそ武士の品位も保たれる。食に乏しければ武士の品位はなくなる。※薩摩藩の武士で奄美に流刑にあった者は多い。南島雑話に「…下通りの流人、同輩共集、焼酎をしたたかに呑み、又は喧嘩をすることかくのごとし。…ばくえき、酒乱流人の常と知べし。其古はたれそれと聞こえし武士、零落すれば見るかげもなく…」とあり、その行状が絵で示されている。


門口 情け

カドグチ ナサケ

kadoguci nasakje

わが家の門口に来る者へは情けをかける

わが家を訪ねてくる者へは、たとえ誰であろうと親切にしてあげるものだ。


かなしゃ 重なりば 心配ど なりゅる

カナシャ カサナルィバ シワドゥ ナリュル

kanasja kasanarϊba siwadu narjuru

愛情がつのればつのるほど、その人の身の上が心配になってくる

いとしい、こいしいと思えば思うほど、その人の身の上が案じられる。


かなしゃど きょらさ ゆわさど 旨さ

カナシャドゥ キョラサ ユワサドゥ マッサ

kanasjadu kjorasa.’juwasadu ʔmaqsa

愛しているからこそ、その人が美しくも見える。ひもじいからこそ、どんな食事でもおいしく食べられるのである。


かなしゃん 子や 他人ぬ 家ぬ むん 食ませ

カナシャン クヮーヤ チュヌ ヤヌ ムン カマスィ

kanasjaN ʔkwaːja ʔcjunu ‘janu muN kamasϊ

かわいい子には、他家のめしを食べさせてやれ

かわいい子を過保護に育ててはならない。むしろ他家へ奉公にやったほうが、その子の将来のためになる。


かなしゃん 子や 鶏 卵

カナシャン クヮーヤ ニワトゥリ タマゴ

kanasjaN ʔkwaːja niwaturi tamago

かわいい子は、鶏の卵


かなしゃん 子んねん 大灸

カナシャン クヮンネン フーヤッショ

kanasjaN ʔkwaNneN huː’jaqsjo

かわいい子には大きなお灸


カナシャン チュヤ アツバンシュヌ サマリガルィ

kanasjaN ʔcjuja ʔatubaNsjunu samarigarϊ

和訳

解説


かなしゃん 夫婦とあんかな 尾筋なんてん はかりゅん

カナシャン トゥジュトゥアンカナ ウスジナンティン ハカリュン

kanasjaN tuzjutuʔaNkana ‘usuzinaNtϊN hakarjuN

相愛の夫婦ならば、山の尾根でも暮らすことができる

愛し合っている男女ならどんなに不自由な欠乏の中でも、いっしょに生活していける。


カナシャンジヤ ミーヤネン

kanasjaNzija miːjaneN

和訳

解説


金持ちと 灰吹きや たまる 程 汚ねさん

カネムチトゥ フェーフキヤ タマル フドゥ キタネサン

kanemucitu hwёːhuʔkija tamaruhudu ʔkitanesaN

金持ちと灰皿はたまればたまるほど汚い

金持ちはお金がたまればたまるほどずるがしこく、心がよごれていく。煙草の灰入れ筒は、灰がたまればたまるほどうすぎたなくよごれてしまう。本土の「金持ちと灰吹きはたまるほどきたない」とまったく同じ。


金持ちの 子や 犬ぬ 子

カネムチヌ クヮーヤ インヌ クヮー

kanemucinu ʔkwaːja ʔiNnu ʔkwaː

金持ちの子は犬の子


金持ちや 三代 続かん

カネムチヤ サンダイ ツィズィカン

kanemucija saNdai cϊzϊkaN

金持ちの家は三代とは続かない

本土の「長者三代」「名家三代続かず」と同じ


鉄や 焼けとん うち 打て 子や いなさん うち 打て

カネヤ ヤケトゥン ウチ ウツィ クヮーヤ イナサン ウチ ウツィ

kaneja ‘jakjetuN ʔuci ʔutϊ ʔkwaːja ʔinasaN ʔuci ʔutϊ

鉄は熱く焼けているうちに打て 子は小さいうちに打って育てよ


神 拝みゅんくま 親 拝め

カミ ウガミュンクマ ウヤ ウガムィ

kami ʔugamjuNkuma ʔuja ʔugamϊ

神を拝むよりは、自分の親を拝め

まずは親を尊び崇めよ。いろいろな神にかぶれて親をないがしろにしてはならないの意を含む。奄美には、ウヤヌカミ[qqujanukami](親の神)、ウヤガナシ[qqujaganasi](親ガナシ)ということばもある。ガナシ[ganasi]は、敬称辞。


カミジャシドゥ アル ハタラキジャシヤ ネン

発音英語

和訳

解説


食物や 今日 食で 言ゅん 物や 明日 言い

カミムンヤ キュー カディ、イュン ムンヤ アシャ イー

kamimuNja kjuː kadi,ʔjuN muNja ʔasja ʔiː

たべものは今日で食べてしまい、言いたいことは明日言え

調理したたべものはその日のうちに食べたほうがよい。たべものはいたみやすいから、衛生的にも味覚の上からもすぐに食べたほうがよいのだ。しかし、物言いは一晩じっくりと思案して翌日に言うがよい。


亀肉ば 嫁ん 煮らしば、余計 ひなりゅん

カムィニクバ ユムィン ニラスィバ ユキ ヒナリュン

kamϊniʔkuba ‘jumϊN nirasϊba ‘juki hinarjuN

亀の肉は煮ると縮んで小さくなる。その亀肉を嫁に煮させると、よけいに小さく縮んだように見えるものだ。

その亀肉を嫁に煮させると、よけいに小さく縮んだように見えるものだ。嫁が途中でつまみ食いをしたのではなかろうかという姑の猜疑心から。


亀や 二人し 煮れ

カムィヤ ターリシ ニルィ

kamϊja ʔtaːrisi nirϊ

亀の肉は、ふたりで煮よ

亀肉は煮るとかえって固く小さく縮んでしまうもの、ひとりで煮るとつまみ食いの嫌疑をかけられてしまう。だから、ふたりの立会いの下で煮るのがよい。


鴨ぬ 同士喰れ

カモヌ ドゥシゴレ

kamonu dusigore

鴨の同士食い(直訳)

鴨は仲間をもいっしょに死地にひき込むの意。鴨の群れが地上におりるときは、リーダーらしい数羽が偵察をかねて舞いおりる。上空の鴨たちは、それら先発隊の安全な姿を見て、彼らのすぐそばにつぎつぎと舞いおりるのである。しかし、先発隊の鴨たちが地上にしかけたワナにかかった場合、彼らはじいっとして鳴き声も立てず、羽ばたきもせず、上空の仲間たちに非常事態を知らさない。あとから舞いおりてくる鴨たちもつぎつぎとワナにかかるのである。仲間たちがワナにかかってしまうと、先発隊の鴨たちははじめてバタバタと羽ばたきをするのである。(実際にはこれらの一連の行動は鴨の習性である。)※自分が危機や窮地におちいったとき、友人にそのことを警告せず、むしろ友人をも同じ目にあわせる意に用いることわざ。


から料理と 女ぬ子ぬ 慣ろし破りや 直さらん

カラジューリトゥ ウナグヌ クヮーヌ ナロシヤブリヤ ノサラン

karazjuːritu ‘unagunu ʔkwaːnu narosi’jaburija nosaraN

塩っからい料理と、娘のしつけ破りは直せない

塩を多く入れすぎて箸もつけられない料理と、しつけが悪く手に負えなくなった娘は、もはや、やり直しはきかない。うち捨てておく以外方法はない。


ガラスィヌ アムルィ?バ ナーシャヤ アム

発音英語

和訳

解説


ガラスぬ 雲あて

ガラスィヌ クモアテ

garasϊnu ʔkumoʔate

カラスが雲を目当てに

カラスが雲を目当てにして飛んでいくようなもの。とても実現できない高望み。日常会話では、さいごに ジャガ[-zjaga] 、ジャガナ[-zjagana](~であるぞ。~ではないか)、チドゥ イュッカナ[-ciduqqjuqqqkana](~というではないか)をつけて用いる。


ガラスぬ 巣作り

ガラスィヌ スィーツィクリ

garasϊnu sϊːcϊʔkuri

カラスの巣作り

カラスの巣の作りかた。粗末な造作をいう。カラスは木の枝などを折りとって粗雑で簡単な巣を作るので、手のかからぬ粗末な小屋作りなどをいう。※農具小屋や物置きなどを作って、人にほめられると「~ダリョンdarjoN(だよ)」などと謙遜する。また、腕の悪い弟子に主人が「ヤーヤ ~ナ ‘jaHH’ja ~na」などという。


ガラスぬ 鷹ぬ 真似 せんな

ガラスィヌ タハヌ マネ センナ

garasϊnu tahanu mane seNna

カラスが鷹の真似をする

カラスが身の程も知らず、鷹の真似をしようとする。自力では及ばぬことを真似したり、欲したりする。分不相応なことを望むことのたとえ。


ガラスぬ 群れ鳴き 物知らせ

ガラスィヌ ボレナキ ムンシラセ

garasϊnu borenaki muNsirase

カラスが群れて鳴くのは不吉の前兆

カラスが群れて鳴くと、なにか不吉なことが起こる。ムンシラシェ[muNsirasje]は、ムンシリャシェ[muNsirjasje]ともいうことがある。一般にはどこかで シニホジョ[sinihozjo](死の不浄。死)があるとされている。本土の「カラス鳴きが悪いと人が死ぬ」と同じ。


借りんや 笑れ面、戻しゅんや ふくれ面

カリンヤ ワレズィラ、ムドゥシュンヤ フクルィズィラ

kariNja ’warezϊra,mudusjuNja huʔkurϊzϊra

借りるときは愛想笑い 返すときはふくれっ面

貸したものは忘れぬが、借りたものは忘れて請求されると渋い顔をするのが人情である。本土の「借りる時のえびす顔、済ますときのえんま顔」と同じ。沖永良部島には、「借り声は有しが、戻し声はなん」がある。


軽荷物持ちゃや 山ガラス 重荷物持ちゃや 胴骨折り

ガルニモツィムチャヌ ヤマガラスィ ウブニモツィムチャヌ ドゥブヌィウリ

garunimocϊmuʔcjanu ‘jamagarasϊ ʔubunimocϊmuʔcjanu dubunϊ’uri

軽い荷物を持つ者は、山カラスのようにすいすいと山谷をこえて行けるし、重い荷物を持つ者は、無理がたたって身体をこわす。

荷物は体力に応じて、むしろ軽々と運んで往復するものである。それを無理して重いのを一度に運ぼうとすると、骨を痛めて、身体をこわすもとになるのだ。


カンズィキ クニイガシ スンナ

kaNzϊʔki kuniʔigasi suNna

和訳

解説


剃刀 買わんゆり 砥石 買うい

カンスィリ コワンユリ トゥイシ コウィ

kaNsϊrϊ kowaNjuri tuʔisi kowϊ

また新しい剃刀を買おうなどとせず、それよりは砥石を買ったほうがよい

古い剃刀を砥石にかけて研げばよいのだ。剃刀は研ぎ方次第であるぞ。

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