石崎公曹の奄美のことわざ
「う」から始まる言葉
女ぬ シマや 無ん
ウナグヌ シマヤ ネン
simaunagunu ja neN
女の故郷はない
女には古里がない。女は夫となる男次第で、どこへなりともついて行かなければならないから、婚家先が故郷になるのだ。女は生まれ育った土地が故郷(心のおちつくところ)ではなく、嫁いだ先が故郷になるのだ。
海ぬ 肥えとん 時や 島ぬ よさ
ウミヌ クェトゥン トゥキヤ シマヌ(シマヤ) ヤスィ
ʔuminu ʔkwёtuN tuʔkija simanu(simaja) ‘jasϊ
海の幸がゆたかな年は、島は豊作物の実らぬ年となる
海のものがたくさんとれる年は、どうしてか陸地の島は凶年となる。id_648では「シマヤ」と言っている。
親ぬ 居らんば 雨夜闇
ウヤヌ ウランバ アマユヤミ
ʔujanu ‘uraNba ʔamajujami
親がいないと雨の夜の闇
親がいるからこそ、家の中は明るく幸せである。もし親がいなければ、家の中は雨天の闇夜のようになってしまうであろう。
親ぬ 恩や 子んねん 報れ
ウヤヌ オンヤ クヮンネン ホールィ
ʔujanu ʔoNja ʔkwaNneN hoːrϊ.
親から受けたご恩は、自分の子に報いよ
親の恩に対してむくいることはできなかったのだから、そのかわり自分の子に対して親から受けた慈愛を返してやるがよい。
親ぬ 下知や むどくな
ウヤヌ ギチヤ ムドゥカン
ʔujanu gicija muduʔkaN
親のいいつけや指示に逆らうな
親の指示には、従わなければならない。
親ぬ 臭さと 味噌ぬ 臭さや 言うんや あなん
ウヤヌ クササトゥ ミスヌ クササヤ イュンヤ アナン
ʔujanu ʔkusasatu misunu ʔkusasaja ʔijuNja ʔanaN
親のにおいの臭さと、味噌のにおいの臭さを口に出していうものではない
子の道義として、父の罪科さえも隠さなければならない。味噌は日常の糧として欠くことのできないものである。両者の臭さを口に出してなんの得になろうぞ。
親ぬ 子 思ゆんや 牛ぬ 毛程
ウヤヌ クヮー オモユンヤ ウシヌ クィフドゥ
ʔujanu ʔkwaː ʔomojuNja ʔusinu kϊhudu
親がわが子を思うのは、牛の毛の数ほど
いくら孝行をつくしても足りない。
親ぬ 孝行や 為過ぎ ちゅんや 無ん
ウヤヌ コーコーヤ シースィギ チュンヤ ネン
ʔujanu koːkoːja siːsϊgi ʔcjuNja neN
親孝行は、しすぎるということはない
親ぬ 教さんてん 他人ぬ 教しゅん
ウヤヌ ナローサンティン ユスヌ ナローシュン
ʔujanu naroːsaNtiN ‘jusunu naroːsjuN
親が教えなくても、他人が教える
親ぬ 罰や たちまち、神ぬ 罰や よりより
ウヤヌ バチヤ タチマチ、カミヌ バチヤ ヨリヨリ
ʔujaN bacija tacimaci,kaminu bacija ‘jori’jori
親不孝の罪に対する罰は、すぐ下される。神への不敬不浄の罪に対する罰はゆっくりとあとで下される。
神への不敬不浄の罪に対する罰はゆっくりとあとで下される。親をないがしろにした罰はてきめんに下される。神をないがしろにした罰は忘れたころに下される。※ここでいう神とは各種の自然神(炉の神、山の神、水の神など)をいう。
親ぬ 引きゅん 綱や 子ぬ 引きゅん
ウヤヌ ヒキュン ツィナヤ クヮーヌ ヒキュン
ʔujanu hiʔkjuN cϊnaja ʔkwaːnu hiʔkjuN
親が引く綱は、子が引く
親が生きるためにとった手段や方法(生活するための生業)を子も引き継ぐのである。子はつまりは親と同じ道を歩むものである。※本土の「子は親に似る」に類する。
親ぬ 奉公や 人に 七度 売らっても しい足らん
ウヤヌ ホーコヤ チュニ ナナクェーリ ウラッティモ シータラン
ʔujanu hoːkoja ʔcjuni nanakёːri ʔuraqʔtϊmo siːtaraN
親への奉公(報恩)は、たとえ自分が七回身売りされても(年期奉公に出されても)、なおかつ足りないくらいである。
親ぬ 破れ傘ち 入りゅん
ウヤヌ ヤレガサチ イリュン
ʔujanu ‘jaregasaci ʔirjuN
親の破れ傘の中へ入る
たとえ親は貧乏でも、親の庇護の下に入る。そこは破屋であっても肉身の両親の慈愛が満ち満ちている。※「親ぬ 破れ傘 かぶりゅん。 ウヤヌ ヤレガサ カブリュン。Qqujanu ’jaregasa kaburjuN」「貧乏やしも 親ぬ 破れ傘。 ビンボヤシモ ウヤヌ ヤレガサ。biNbojasimo qqujanu ‘jaregasa」という表現もあり、意味はすべて同じ。
親ぬ 世 済めば わが世 なりゅり
ウヤヌ ユ スィムィバ ワガユ ナリュリ
ʔujanu ‘ju sϊmϊba ‘wagaju narjuri
親の代が終わったら、自分たちの代になるのである
頼りにしていた親たちの世が済んで、そのあとはわれわれが頼りにされる世になるのだ。世代はかわっていくものだ。感無量である。
親ぬ 教訓や 胸なん 染むれ
ウヤヌ ユスィグトゥヤ ムネナン ソムィルィ
ʔujanu ‘jusϊgutuja munenaN somϊrϊ
親の教訓は、心に染めておけ
※歌謡にもある常套句。教訓歌からとったことわざ。
親まさりぬ 筍
ウヤマサリヌ ダーナ
ʔujamasarinu daːna
親よりすぐれているのはタケノコ。
親むどき 子むどき
ウヤムドゥキ クヮームドゥキ
ʔujamuduʔki ʔkwaːmuduʔki
親へのさからい、子のさからい
親の言うことなすことにいちいち逆らっている者は、つぎは自分の子に逆らわれるようになるのだ。親に反抗したものは、つぎは自分の子に反抗されるときが必ずやってくる。
親や 神様
ウヤヤ カミサマ
ʔujaja kamisama
親は神様。
ウヤヤ クー?ヌカジ クヮーヤ ツナヌカジ
発音英語
和訳
解説
ウヤヤ ナシドゥ ナサリル キモタマシィ ツクティヤ ナサラン
発音英語
和訳
解説
親や 奔り川 他人や 淀川
ウヤヤ ハリコ ユスヤ ユドゥゴ
ʔujaja hariko.’jusuja ‘judugo
親はさらさらと流れる清らかな川、他人はよどんだにごり川
親の心は自分に対しては常に清らかであるが、他人の心は自分に対してにごってよどんでいる。※「親や奔り川ぬ水ぬ心 他人や淀川ぬ水ぬ心。ウヤヤ ハリコヌ ムィズィヌ ククル。ユスヤ ユドゥゴヌ ムィズィヌ ククル。qqu’ja’ja harikonu mEIzEInu kukuru, ‘jusuja ‘judugonu mEIzEInu kukuru」ともいう。
親や 奔り川ぬ水ぬ心
ウヤヤ ハリコン ムィズィヌ ココロ
ʔu’ja’ja harikoN mϊzϊnu kokoro
親はさらさらと流れる清らかな川
親譲り 子譲り
ウヤユズィリ クヮーユズィリ
ʔuja-‘juzϊri ʔkwaː-‘juzϊri
親は子に譲り、子は親に譲る
親と子が互いに謙譲の美徳をもっていて、しかも愛情深く結ばれている。※ 上品な、和やかな家庭をたとえていう。日常会話でも「アマヌ ヤーヤ ウヤ ユズィリ クヮーユズィリシ ムィズィラカヤー。qqamanu ’jaHHja qquja’juzEIri mEIzEIraka’jaHH.(あの家族は親子それぞれがゆずり合って、うらやましいなあ。」などと評する。
ウヤン クヮン カジカジ
発音英語
和訳
解説
親ん 生さてど くん世に 生きりゅん
ウヤン ナサッティドゥ クンユニ イキリュン
ʔujaN nasaqʔtϊdu kuN’juni ʔiʔkirjuN
親に生んでもらったからこそ、わが身はこうしてこの世に生きている
不思議な因縁であるが、享けたこの命はまことにありがたい。《かなテキストでは「イキトゥン」で、音声テキストでは[qqiqqkiqqcjuN]で、くいちがいがあるが、そのままにした。》
ウヤン フクヌ ナナクルビ ヤオキ
ʔujaN hukunu nanakurubi ‘jaʔoʔki
和訳
解説
親んじ 似らんや 茸 親まさりや 筍
ウヤンジ ニランヤ ナバ ウヤマサリヤ ダナ
ʔujaNzi niraNja naba ʔujamasarija dana
親に似ないのはキノコ、親よりすぐれているのはタケノコ
間には親に似ぬ愚鈍な子もいるし、親以上の才智ある子もいるのだ。※傘をひらいた大きなキノコと生じたばかりの小さなタケノコの比較、色あせていく古いキノコとぐんぐん伸びて青竹になるタケノコの比較による表現。
ウラトゥミムドゥリ
ʔuratumi muduri
和訳
解説
織り機や 大道端
ウリバタヤ フーミチバタ
ʔuribataja huːmicibata
はた織りは、大道のそばの、通行人にも開放された機小屋で織るのがよい。
衆人の見る中で未熟さをなおされたり、段取りを教えられたりすることによって腕も上達するのである。
売り物や 早さ、買い物や ゆるゆる
ウリムンヤ フェーサ、コイムンヤ ヨリヨリ
ʔurimuNja hwёːsa,koimuNja ‘jori’jori
売り物は早々と処分したほうがよい。買い物はゆっくりとよく検討した上で買うがよい。
うる石 がぶりゅんがりや 人 笑うな
ウルイシ ガブリュンガルィヤ チュー ワラウナ
ʔuruʔisi kaburjuNgarϊja ʔcjuː ‘warauna
墓場に入るまで人を嘲笑するな
死んで穴に埋められ、その上にウル石(板状サンゴ石)をかぶされるまで(昔、島では土葬のとき、板状サンゴ礁を用いてふたとした)他人をあざ笑ってはいけない。
豚と 山羊や 犬と 猫
ウヮートゥ ヤギヤ イントゥ マヤ
ʔwaːtu ‘jagija ʔiNtu maja
豚と山羊は、犬と猫のように性が合わない
※どこの農家でも両者を近くにはおかない。両者の小屋も遠く離してある。
豚ん子算用
ウヮンクヮサンミン
ʔwaNʔkwa-saNmiN
豚の子算用
生まれてもいない子豚の計算。本土の「捕らぬ狸の皮算用」「もうけぬ前の胸算用」と同じ。
恩義 忘れりば 闇ぬ 夜
ウンギ ワスィレルィバ ヤミヌ ユ
ʔuNgi ‘wasϊrerϊba ‘jaminu ‘ju
恩義を忘れると、世は闇だ
受けたご恩を忘れるようでは、この世間は闇夜も同じだ。