石崎公曹の奄美のことわざ
「い」から始まる言葉
言い上手い?んま 聞き上手
イージョーズィインマ キキジョーズィ
ʔiːzjoːzϊʔiNma ʔkiʔkizjoːzϊ
言い上手よりは、聞き上手
会話の支障のない運びは話し上手よりは、聞き上手になることである。本土の「話し上手は聞き上手」に類する。
言い上手や 無ん 耐ね上手や 有ん
イージョーズィヤ ネン コネジョーズィヤ アン
ʔiːzjoːzϊja neN konezjoːzϊja ʔaN
言い上手というのは、だれもいない
こらえ上手というのはいる。どんなにことば上手とはいっても、いつかはことばをすべらせて、相手の機嫌を損ねてしまうことがあるものだ。だから、人と話をするときは、いい気分でばかりはいられない。どんなことを言われようと、こらえ上手にならなければならない。こらえ上手であればこそ、人との会話もなんの支障もなく続けることができるのである。こらえ上手こそ会話上手であるぞ。
言いちゃさん 事や 明日 言い
イーチャサン クトゥヤ アシャ(アッシャ) イー
ʔiːʔcjasaN kutuja ʔasja(ʔaqsja) ʔiː
言いたいこと(抗弁したり、難詰したりしたいこと)は、翌日に持ち越して言うのがよい
早まって言ってしまうと、あとで後悔もしよう。心を落ち着けて一晩考えてみて、あくる日に理路整然と言うのがよい。本土の「言いたいことは明日言え」と同じ。
嘆息ぬ あとや 地獄ぬ 鬼
イキツィキヌ アトヤ ジゴク(ジコク)ヌ オニ
ʔiʔkicϊʔkinu ʔatoja zigoku(zikoku)nu ʔoni
大変な悩みごとで、どうしよう、どうしようと悩みぬいて嘆息の毎日をすごしたあと、人間というものは、開き直って心が地獄の鬼と化すものである
命にかかわるような悩みごとの末に、その人は鬼の心情を持つようになる。
生き恥や 埋さてん 死に恥や 埋さわらん
イキハジヤ ウサティン シニハジヤ ウサワラン
ʔiʔkihazija ʔusatϊN
sinihazija ʔusawaraN
生きている間にかく恥は、他人の目から見えないよう埋めることもできるが、死んだあとにあらわれた恥は、もう埋めようもなく、永久にかくし立てすることができない
死に際の恥、死後の恥は、他人の目から隠すわけにはいかない。
出じて 八年、 なて 八年
イジティ ハチネン、 ナティ ハチネン
ʔizitϊ hacineN,natϊ hacineN
癩病は、かかってから八年目に病状の兆候があらわれる
そして、その後八年間の長きにわたって患わなければならない。潜伏八年、わずらい八年と長い期間の病気である。
意地ぬ 出じりば 手引き 手ぬ 出じりば 意地 引き
イジヌ イジルィバ ティ ヒクィ ティーヌ イジルィバ イジ ヒクィ
ʔizinu ʔizirϊba tϊː hiʔkϊ tϊːnu ʔizirϊba ʔizi hiʔkϊ
意地(怒り)が出てきたら、自分の手(暴力に訴えようとする手)を引っこめるがよい
もし、自分の手が先に出ようとするならば、胸の意地(怒り)を極力おさえるがよい。
医者ぬ 医者嫉妬、 ユタぬ ユタ嫉妬
イシャヌ イシャウヮーナリ、 ユタヌ ユタウヮーナリ
ʔisjanu ʔisjaʔwaːnari,’jutanu ‘jutaʔwaːnari
医者は他の医者をねたみ、ユタ(占師)は他のユタをねたむ
同業者同士は互いに相手を嫉妬し合うものである。
医者ぬ 不養生
イシャヌ フヨージョ
ʔisjanu hujoːzjo
医者は自分の身体、健康については不養生である
医者は自分の健康については不案内である。
言しゃん 口や 違(わ)すな
イシャン クチヤ タゴ(ワ)スナ
ʔisjaN ʔkucija tago(wa)suna
言ったことばを違わすな
自分が一度言ったことは、守らなければならない。言った通りのことはしなければならない。
言しゃん 言葉や 呑みんきゃらん
イシャン ユムタヤ ヌミンキヤナラン
ʔisjaN ‘jumutaja numiNʔkija naraN
言ったことばは呑み込めない
一度口から出したことばは、呑み込むことができないものである。人の前で発言する場合は、じゅうぶんにことばに留意しなければならない。
急がり蟹や 穴ちや 入(りき)らん
イショガリガンヤ ムィーチヤ イ(リキ)ラン
ʔisjogarigaNja mϊːcija ʔi(riʔki)raN
あわてふためくカニは、自分の穴にさえはいれない
あわてたり、急いだりすると、平素やりなれた仕事にさえ失敗するものである。
急がりば 回れ
イショガルィバ マワルィ
ʔisjogarϊba mawarϊ
急ぐならば、むしろ近道を求めず迂回せよ
本土の「急がば回れ」と同じ。※0325「急(し)かば ゆるっと 回れ。スィカバ ユルット マワルィ。sϊkaba juruqto mawarϊ. 《0325のことわざは、「急かば よりより。スィカバ ヨリヨリ。(急がば ゆっくり。)」になっていて、ここの言い方とことなる。》」とも、0068「一合ど 回りゅる。 大道 通れ。イチゴドゥ マワリュル。 フーミチ トゥールィ。ʔicigodu mawarjuru. huːmici tuːrϊ 《もとの原稿の音声テキストには、[mawari]とあったが、0068のことわざではトゥールィ[tu:rï]なので、それを掲げる。》」とも、0461「近道 踏まず、 遠道 回れ。チキャミチ クマズィ、 トゥーミチ マワルィ。ciʔkjamici ʔkumazϊ, tuːmici mawarϊ」ともいう。それぞれ別項参照。
漁師ぬ 棘たれ魚
イショシャヌ ニギタレイュ
ʔisjosjanu nigitareʔiju
漁師の骨の多い魚
漁師はさぞかし大きな魚を食べているかと思うだろうが、骨の多いトゲだらけの小魚を食べているにすぎない。本土の「大工の破れ家」に類する。
いたじら 言いば 板 うちちかりゅん
イタズィラ イーバ イタ ウチツィカリュン
ʔitazϊra ʔiːba ʔitauci cϊkarjuN
いたずらなこと(余計なこと)を口に出すと、その口出しが災いして、あとで罪人に仕立てられ、板を首にうちつけられることになる 罪状板を首にかけられることになる
イチャ[ʔicja](板)とは、藩政期の罪のひとつ。板(2枚組み合わせでそれぞれ半円をもち、あわせて首穴となる)で首をしめ、引き回された。
一石高 開かんゆっか 一人ぬ 口 減らし
イチククダカ ヒラカンユンマ(ヒラカユッカ) チューリヌ クチ ヒラスィ
ʔicikukudaka hiraʔkaNjuNma(hiraʔkajuqʔka) ʔcjuːrinu ʔkuci hirasϊ
一石高の田地を開くよりは、むしろひとりの人間の食い扶持を減らしたほうがよい
※「~ゆっか」は「ユリモ、ユンマ、ユッカ(いずれも「~より」の意)」につくときの古文法。「開かん」の「ん」は意志推量。開こうよりは、開こうとするよりは。
一合ど 回りゅる 大道 通れ
イチゴドゥ マワリュル フーミチ トゥールィ
ʔicigodu mawarjuru huːmici tuːrϊ
たった一合(1里の4分の1=400 メートル)余計にまわればよいのだから、近道なんぞを選ばず、大道を通れ
近道といってもたかが400 メートルの違いではないか。堂々とゆっくり大きな道を歩いて通れ。本土の「急がば回れ」に類する。
一日 遅れりば 三年 遅りん
イチニチ ウクルィルィバ サンネン ウクルィン
ʔicinici ʔukurϊrϊba saNneN ʔukurϊN
わずか一日のおくれをとると、結果として三年のおくれになる
一里ぬ 道も 針 持てば だれん
イチリヌ ミチモ ハリ ムティバ ダレン
ʔicirinu micimo hari mutϊba dareN
一里の行程を歩くのに、一本の針を持って歩いても疲れる
とるに足りない一本の針さえも、これを持って歩くとすれば、一里の道程でも面倒である。
一銭ぬ 欲や 十円ぬ 損
イッシェンヌ ユクヤ ジューエンヌ スン
ʔiqsjeNnu ‘juʔkuja zjuː’jeNnu suN
一銭でも欲ばって得ようとすれば、かえって十円もの大損をすることになる
小さな欲心を出して、かえって見破られて、あとで十円の大損をこうむることもあるのだ。本土の「一文吝しみの百知らず」に類する。
一生 難儀や うらん
イッショー ナンギヤ ウラン
ʔisjoː naNgija ʔuraN
一生難儀をするということはない
難儀が一生その人につきまとうということはない。正直に働いてさえおれば、いつかは陽の目を見ることもできるのだ。
漁歩き 貧乏
イッショアッキ ビンボ
ʔiqsjo ʔaqʔki biNbo
漁に出るのは、結局は貧乏になる
魚とりを専業とする者は、結局はしがない貧乏漁師にすぎない。そんなに豊漁ばかり続くはずはなく、平均して見れば手ぶらで帰る日が多いのだ。
いっしょ石や まんどんばん? 碇石や 無ん
イッショイシヤ マンドゥンバン イキャリイシヤ ネン
ʔiqsjo ʔisija maNduNbaN ʔikjariʔisija neN
石はたくさんあるけれど、碇にする石はない
舟の碇石を探しに川原にやってきて、目の前に石は無数にあるけれど、碇石に適当なものはひとつもなく、満足できるものはなかなか見つからない。おのれの意に適うものは、なかなか探しにくいものだ。
漁や 生不浄 きらい、 山や 死不浄 きらい
イッショヤ イキホジョ キライ、 ヤマヤ シニホジョ キライ
ʔiqsjoja ʔiʔkihozjo ʔkirai,’jamaja sinihozjo ʔkirai
海の漁仕事では、生きた人の不浄行為をきらう。山の仕事(いのしし猟、伐採など)では死んだものの不浄(村のだれかが死ぬとか、動物の死体を見るとか)をきらう。
海と山、生きている者の不浄行為と不浄死体を対立させたことわざ。したがってその逆の場合は、むしろ歓迎される場合がある。女が漁の道具をまたぐ行為や妻の月経期などは生不浄であり、漁師はそのような雰囲気が自分の身についているときは出漁しない。たとえ出漁しても魚獲はないと信じられていた。また、猟師は飼い猫が死んだり、豚を屠殺したりするのを見たときは、死不浄の雰囲気が身についているとして出猟しない。たとえ出猟しても獲物はなく、むしろ、災難がおこると信じられていた。しかしこの逆の場合、生不浄が身についている猟師が山へでかけると、思わぬ捕獲ができるとむしろ喜んだりした。
一寸 先 夜闇
イッスン サキ ユヤミ
ʔiqsuN saʔki ‘jujami
一寸の先は夜の闇である
人間のあすの運命は、だれにもまったくわからないものである。一寸ほど先にある運命さえ、夜の闇のように見通しはきかないものである。
一寸ぬ 口なん 戸 立てららん
イッスンヌ クチナン ヤド タティララン
ʔiqsuNnu ʔkucinaN ‘jado tstϊraraN
わずか一寸の幅しかない人の口ではあるが、戸を立てることはできない
人の口に戸を立てて秘密を守るようにする訳にはいかぬ。口から口へとすぐ噂になってしまうものである。本土の「人の口に戸は立てられぬ」と同じ。
一本杉と 一人女(と)や どくな者や 居らん
イッポンスィギトゥ チューリウナグ(トゥ)ヤ ドゥクナムンヤ ウラン
ʔiqpoNsϊgitu ʔcjuːri’unagu(tu)ja duʔkunamuNja ‘uraN
一本杉とひとり娘には、ろくなものはない
両者ともろくでもない代物である。杉材は杉林の中で育ったものがよいし、娘は兄弟姉妹の中で育ったのがよいのだ。
海老 なろに すれば 目眉ぬ 足らじ、蟹なろに すれば大爪ぬ 足らじ
イビ ナロニ スィルィバ ムィマユヌ タラズィ、ガン ナロニスィルィバ フーズィムィヌ タラズィ
ʔibi naroni sϊrϊba mϊma’junu tarazϊ,gaN naroni sϊrϊba huːzϊmϊnu tarazϊ
エビになろうとすれば、目と眉(容貌)が足らず、カニになろうとすれば、大きな爪が足らず(言いさし)、つまりは、エビにもカニにもなれず、どっちつかずの状態で困りぬいている
このことわざを日常の会話で用いる場合は、最後に チュンダッカドー[-ʔcjuN daqʔkadoː](というぐあいなのさ)をつける。
イントゥ カフトゥ オウバ イッショイシヌ ウーナンティドゥン クラサリュリ
ʔiNtu kahutu ʔoʔuba ʔiqsjoʔisinu ʔuːnaNtiduN kurasarjuri
和訳
解説