石崎公曹の奄美のことわざ

「な」から始まる言葉

名 捨てらんゆんま 世 捨てれ

ナー スィティランユンマ ユー スィティルィ

na: sϊtϊraNjuNma ‘ju: sϊʔtϊrϊ

名を捨てるよりは、世を捨てよ

汚名を着て、おめおめと世間で生きているよりは、世間を捨てて隠棲したほうがよい。そのほうが名を重んじることになるし、いさぎよい人ともいわれることになる。


名 取りゅんゆっか 得 取れ

ナー トゥリュンユッカ トゥク トゥルィ

na: turjuNjuqʔka tuʔku turϊ

名をとるより、得をとれ

名誉よりは、利得をとれ。前出「人や一代 名や万代」の反対。トゥランユッカ[turaNjuqqqka]は、トゥロユッカ[turojuqqqka]ということもある。
本土の「花より団子」に類する。


長みんや  巻かれん

ナガーミンヤ(ナガサンジャ) マカレン

nagaːmiNja(nagasaN zija) makareN

長いものには巻かれる

どうしても強大なものには勝てない。相手のいうままになってしまわざるをえない。本土の「長いものには巻かれよ」「強い者には負けろ」に類する。


梅雨ぬ 上がりんや 家ぬ いっきゃ 取て 待て

ナガシヌ アガリンヤ ヤーヌ イッキャ トゥティ マティ

nagasinu ʔagariNja ‘ja:nu ʔiqʔkja tutϊ matϊ

梅雨があがったときには、家の屋根のまげ(かやぶき屋根のてっぺんで竹などを通して固定したところ)をやりかえて、次にやってくる台風を待て

梅雨が終われば、まもなく台風がくるから、そのそなえをしておけの意。
「イッキャ ʔiqʔkja 」は、「いらか」の転訛。意味も「かやぶき屋根のたぶさ」となる。その作り直しや補強を「いっきゃ取りゅん イッキャ トゥリュンʔiqʔkja turjuN 」という。


梅雨時期や ひとり娘や せとなり回り しむるな

ナガシフリンヤ チューリウナグヌクヮーヤ セトナリマーリ スィムィルナ

nagasihuriNja ʔcju:ri’unagunuʔkwa:ja setonari-maːri sϊmϊruna

梅雨の田植え時期には、かわいいひとり娘でも、隣り近所へのほっつき歩きをさせてはならない

自家も他家も猫の手も借りたいほどの忙しい時期だ。できれば田植えの手伝いをさせよ。


ながめぬ 七回 出じりば 梅雨や あがり

ナガムェヌ ナナケーリ イジルィバ ナガシヤ アガリ

nagamёnu nanakёːri ʔizirϊba nagasija ʔagari

白アリの群れが七回でると、梅雨も終わり

羽をつけた白アリが朽木などから群れて飛び出すのが七回もあれば、いよいよ長い梅雨も終わるのである


ナガラシフニヤ スィトゥヌ アダ

nagarasihunija sϊtunu ʔada

和訳

解説


流れ川 三尺

ナガレゴ サンジャク

nagarego saNzjaʔku

流れる川は三尺で清い

流れる川の水は三尺も流れると清い。
本土の「水は三尺流れれば清くなる」に類する。


流れ川と 人間ぬ 命や 見しゅんむん

ナガレゴトゥ ニンギンヌ イヌチ(ニューチ?)ヤ ニシュンムン

nagaregotu niNgiNnu ʔinuci(njuːci)ja nisjuNmuN

流れる川と人間の命は見えない

谷川の流れと人の身はどこへ落ちていくのか予測できない。


ナキバドゥ アキラレン

naʔkibadu ʔaʔkirareN

和訳

解説


泣きゅん 子ど 乳 呑まれん

ナキュン クヮドゥ チ― ヌマレン

nakjuN ʔkwadu ci: numasareN

泣く児にしか乳は呑まされない

泣く子にこそ、乳が与えられるのだ。泣かない子には、与えられない。「おくれ、おくれ」と口を大きく開くひなにしか、親鳥は餌を与えない。口も開けず黙っているひなには、餌を与えない。せがんでこそ、貰えるという意味。
本土の「泣く子に乳」とも相通じる。


泣きゅん 子んじ(子ねん)ど 乳 呑ましゅん

ナキュン クヮンジ(クヮンニン)ドゥ チー ヌマシュン

nakjuN ʔkwaNzi(ʔkwaNniN)du ci: numasjuN

泣く児にしか乳は呑まされない

泣く子にこそ、乳が与えられるのだ。泣かない子には、与えられない。「おくれ、おくれ」と口を大きく開くひなにしか、親鳥は餌を与えない。口も開けず黙っているひなには、餌を与えない。せがんでこそ、貰えるという意味。
本土の「泣く子に乳」とも相通じる。


泣きゅん 子んじど 乳や 呑まされん

ナキュン クヮンジドゥ チーヤ ヌマサレン

nakjuN ʔkwaNzidu ci:ja numasareN

泣く児にしか乳は呑まされない

泣く子にこそ、乳が与えられるのだ。泣かない子には、与えられない。「おくれ、おくれ」と口を大きく開くひなにしか、親鳥は餌を与えない。口も開けず黙っているひなには、餌を与えない。せがんでこそ、貰えるという意味。
本土の「泣く子に乳」とも相通じる。


泣きゅん 子んにど 乳 呑ましゅん

ナキュン クァンニドゥ チー ヌマシュン

naʔkjuN ʔkwaNnidu ci:numasjuN

和訳

解説


投ぎ銭や 戻りゅん

ナグィジンヤ ムドゥリュン

nagϊziNja mudurjuN

投げ銭(人をほめて投げて与える金)は、いつかはわが身にかえってくる

芸人や相撲とりなどへの祝儀は、自分にかえってくるのだから、惜しんではならない。
※村の行事や興行には、側面的援助を与えて盛り立てるがよい。あとできっとよいことがあるの意であろう。


泣し 暮らしゅんも 一生、 笑て 暮らしゅんも 一生

ナシ クラシュンモ イッショ、 ワロティ クラシュンモイッショ

nasi ʔkurasjuNmo ʔiqsjo(:), ‘warotϊ ʔkurasjuNmo ʔiqsjo(:)

泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。

※笑って暮らすのがよいという楽天的なことわざであるが、それでも泣かねばならぬこの世であるから、泣き笑いの一生にならざるをえない。本土の「泣くより歌」に通じる。


なしが きょらさ (かなしゃが きょらさ)

ナシガ キョラサ (カナシャガ キョラサ)

nasiga kjorasa (kanasjaga kjorasa)

わが生みの子がいちばんかわいい

人の子できれいなのもいるが、なんといっても自分が生んだ子がいちばんきれいに見える。
本土の「親の目はひいき目」に通じる。


生しゃる 親ぬ つぎゅる 食物や とう盛りぬ 心

ナシャル(ナシャン) ウヤヌ ツィギュル(ツギュン) ムンヤ トゥーモリヌ ククル(ココロ)

nasjaru(nasjaN) ʔujanu cϊgjuru(cϊgjuN) muNja tu:morinu kukuru(kokoro)

わが生みの親のよそうご飯は、椀に力いっぱい押し込んで、中味いっぱいに入れる、ありがたい心がこもっている

実の親は食事のよそいかたにも親心があって、うんと押し込んで入れてくれる。


なたる 乞食

ナタル クジキ

nataru kuziʔki

なれの果ての乞食

原意は「後天的になってしまった乞食」。
※奄美で「乞食」とは癩病患者のことで、癩者の一族が乞食をして家々を回ることは当然のこととして認められていた。そのように公認された乞食ではなく、人生の前半を健康人として世の人に伍して生活しながら、身を滅ぼして乞食になりさがった者や癩の血統でもないのに(昔の人は癩を遺伝だと信じていた)発病して乞食に身をおとした者を「なれの果ての乞食」とよんだ。「運命のいたずらか、ならずに済む人が乞食になる場合もあるのだ。」の意で用いられる。


ナツィ アムィヌ カタブリ

nacϊ amϊnu kataburi

夏雨の 片降り

解説


ナツィガサヤ スティンジ イラシュン

nacϊgaqsaja sutϊNji ʔirasjuN.

和訳

解説


夏ぬ 雨や 舟ぬ おもて・とも 変わりゅり

ナツィヌ アムィヤ フヌィヌ オモテ・トゥム カワリュリ

nacϊnu ʔamϊja hunϊnu ʔomote-tumu kawarjuri

夏の雨は舟のヘサキとトモとで変わる

舳先(ヘサキ)に降って艫(トモ)には降らず、艫に降って、舳先に降らずという降りかたである。※奄美では雨が一線を画して降ること(一方にだけ降って他方は乾いている現象)を片降(カタブリ[kataburi])という。夏の雨に特有な降りかたである。


夏ぬ ムジや 嫁んじ 食ますな

ナツィヌ ムジヤ ユムィンジ カマスナ

nacϊnu muzija ‘jumϊNzi kamasuna

夏のズイキは嫁に食わすな

夏のズイキは美味である。こんなものを嫁に食わすわけにはいかぬ。


七回 耕しば 肥料や いらん

ナナクェーリ タガヤスィバ コヤシヤ イラン

nanakё:ri tagajasϊba kojasija ʔiraN

七回耕せば、肥料など不要

天地返しの耕作の大事さをいう。


七倉 建てりゅんくま 一人ぬ 口 引き

ナナクラ タテリュンクマ チューリヌ クチ ヒクィ

nanaʔkura taterjuNkuma ʔcju:rinu ʔkuci hiʔkϊ

七倉を建てるよりは、ひとりの食い扶持を減らしたほうがよい

ひとりの人間の一生の食い扶持は大変な量なのだから。「七倉ぬ 米 かさめらんくま。ナナクラヌ クムィ カサムェランクマ。nanaʔkuranu kumϊ kasamёraNʔkuma(七倉の米をふやすよりは)」ともいう。


七倉ぬ米 かさめりゅんくま 一人ぬ 口 引き

ナナクラヌ クムィ カサメリュンクマ チューリヌ クチ ヒクィ

nanaʔkuranu kumϊ kasamerjuNkuma ʔcju:rinu ʔkuci hiʔkϊ

和訳

解説


七種雑炊 食でからや 病や ねん

ナナシナ(ナンカン)ジョッセ カディカラヤ ビョーヤ ネン

nanasina(naNkaN)-zjoqse kadiʔkaraja bjo:ja neN

七草入りの雑炊を食べてからは病気にならない

七草入りの雑炊は体によいとされている。


七十 なりゅんがり(なるがり) 物ぬ 知り果てや 無ん

ナナジュ ナリュンガルィ(ナルガルィ) ムンヌ シリハテヤ ネン

nanazju narjuNgarϊ(narugarϊ) muNnu sirihateja neN

七十歳になるまでは、ものごとを知り果てるということはない

七十歳になるまでは、見聞を広めなければならない。本土の「六十の手習い」に類する。


七つと 一ぬ(一ぬが) 上下や 餅と かしゃ

ナナツィトゥ ティーツヌ(ティンガ) ウィーシャーヤ ムチトゥ カッシャ

nanacϊtu ʔtϊːcϊnu (ʔtϊNga) ʔwϊ:sjaːja mucitu kaːqsja

七歳と一歳ちがいの上(男)と下(女)は、月桃餅の葉と中味の餅のようにぴったりとくっついている

夫婦の七つ違いとひとつ違いは、ぴったり呼吸が合っていて仲が良い。
※ひとつを「一(ʔtϊN )」というのは、ひふみ読みにあたる ティー[ ʔtϊ: ] の語尾が弱い語気となるのを強めるために無意識に -ン[- N] をつけるのである。


七人ぬ 子 生しんがりや 夫んじ 肝 呉れんな 妻んじ 肝 呉れんな

ナナツヌ クヮー ナシンガルィヤ ウトゥンジ キモ クルィンナ トゥジンジ キモ クルィンナ

nanacϊnu ʔkwa: nasiNgarϊja ʔutuNzi ʔkimo ʔkurϊNna tuziNzi ʔkimo ʔkurϊNna

七人の子を生むまでは、夫に気を許すな 女房に気を許すな

「ナナタリ[nanaʔtari](七人)」は古い表現で、現時「シチニン[siciniN] 」という。長年いっしょに暮らした女房にも油断してはならない。本土の「七人の子はなすとも女に心許すな」と同じ。


ナヌ ウナサリンヤ ワーナリンジ タガラスィ

nanu ʔunasariNja wa:nariNzi tagarasϊ

和訳

解説

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