石崎公曹の奄美のことわざ
「と」から始まる言葉
十日月ぬ 夜中入り 二十日 夜闇
トゥーカヅィキヌ ユナハイリ ハツィカ ユヤミ
tuːkazϊʔkinu ‘junahaʔiri hacϊka ‘jujami
十日の月は夜中に沈む
二十日は闇夜。旧暦の十日は真夜中に月の入り、旧暦の二十日は、宵のうちは月は出ず闇の夜。
遠さぬ 馬乗り牛乗りゆっか 側面ぬ 蟻や虫どぅ いっちゃん
トゥーサヌ マーノリウシノリユッカ スバズィラヌ アミヤ ムシドゥ イッチャン
tuːsanu ʔmaːnori ʔusinori’juqka subazϊranu ʔamija musidu ʔiqcjaN
遠くの、馬乗り牛乗りをして訪ねる親類よりはすぐそばの蟻や虫の方がよい。
解説
十ぬ 指ぬ 内ち 曲がりゅん
トゥーヌ イュブィヌ ムェーチ マガリュン
tu:nu ʔjubϊnu mёːci magarjuN
十本の指は、内側に曲がるのである
それが自然の姿である。それに反することはできない。自然ななりゆきに従うことはできても、それに反する不自然な、無謀なことはできない。「前ちど 曲がりゅん。ムェーチドゥ マガリュン。 mё:cidu magarjuN」ともいう。
十ぬ 指や 内ちど 曲がりゅっか
トゥーヌ イュブィヤ ムェーチドゥ マガリュッカ
tu:nu ʔjubϊja mёːcidu magarjuqka
十本の指は、内側に曲がるのである
それが自然の姿である。それに反することはできない。自然ななりゆきに従うことはできても、それに反する不自然な、無謀なことはできない。「前ちど 曲がりゅん。ムェーチドゥ マガリュン。 mё:cidu magarjuN」ともいう。
ドゥーヌ カナシャルィバ ウッチュ カナシャスィルィ
du:nu kanasjarϊba ʔuqʔcju kanasjasϊrϊ
和訳
解説
自分ぬ 子ぬ 居れば 嫁倒れ
ドゥーヌ クヮヌ ウルィバ ユムィドーレ
duːnu ʔkwanu ‘urϊba ‘jumϊdo:re
わが子が家にいると嫁が苦しんでまいってしまう
婚家先に夫の姉妹がいると、夫の両親はなにかにつけて自分の子に与するので、嫁の立場は苦しく病気になって倒れかねない。
本土の「小姑鬼千匹」に類することわざ。
ドゥーヌ チュンネン ウヤマラルィ キャサルィバ チューウヤマルィ
du:nu ʔcjuNneN ʔujamararϊ ʔkjasarϊba ʔcju:ujamarϊ
和訳
解説
トゥーヌ トラ スィティルィダルィ ウナグヤ ムン ユーナ(ムンナ ユーナ)
tu:nu tora sϊtirϊdarϊ , ʔunagja muN ju:na(ʔuNna ju:na)
和訳
解説
自分ぬ 泥舟なん 乗てん 人ぬ 口なん 乗るな
ドゥーヌ ドロブヌィナン ノティン チューヌ クチナン ノンナ
duːnu dorobunϊnaN notϊN ʔcjuːnu ʔkucinaN noNna
自分の泥舟には乗っても、他人の口車には乗るな
泥舟を「破れ舟 ヤレブヌィ[‘jarebunϊ]」とも表現する。自分の「破れ舟」に乗るのも危険なことだが、他人の口車に乗せられるとそれ以上の致命的な災難がふりかかってくるのだ。
自分悪さど 他人悪さ
ドゥーワッサドゥ チューワッサ
du:’waqsadu ʔcju:’waqsa
自分が悪いから人を悪いと思うのだ
自分の人に対する態度が悪いからこそ、人も自分に対して悪い態度で接するのである。すべて原因は自分にあるのだ。
本土の「人の悪きは我が悪きなり」「人の悪気はわが悪気」に類する。
時と 潮とや 人ば 待たん
トゥキトゥ ウシュトゥヤ チュバ マタン
tuʔkitu ʔusjutuja ʔcjuba mataN
時間と潮の満ち干は人を待たない
いちど逃すともう間に合わずとり返せない。予定や潮時は人が待機して合わせるべきであって、時と潮どきが人を待つのではない。本土の「時人を待たず」に類する。
得な 港や 二度や 入らんむん
トゥクナ ミナトヤ ニドゥヤ イランムン
tuʔkuna minatoja niduja ʔiraNmuN
商売で得をした港には、二度とは入らぬもの
ボロもうけに味をしめて再度いくと、前回でこりた買い手の人々が相手にしてくれないはずだ。
毒も 薬 なりゅん
ドゥクモ クスリ ナリュン
duʔkumo ʔkusϊri narjuN
毒も使いようによっては薬となる
骨身にこたえる失敗をなめて、かえってそれによって再起して心身が楽になるという場合にも用いられる。
本土の「毒薬変じてよい薬」に類する。
妻 かむれば 姑 かむれ
トゥジ カムィルィバ スィトゥ カムィルィ
tuzi kamϊrϊba sϊʔtu kamϊrϊ
妻をめとるならば、姑をめとるつもりで観察せよ
娘は母親に似るものだ。母親を見れば、どんな娘だか想像はつく。だから、妻としてめとろうと思えば、その娘の母親をよくみておけ。「妻かみや 親 見い。トゥジカムィヤ ウヤ ニー。tuzikamɪ̈ja ʔu’ja ni:」(妻をめとろうと思えば、まずその姑を見て選べ)ともいう。本土の「嫁を貰えば親を貰え」「嫁を見るより親を見よ」に類する。
同士 見ば うん 人ぬ わかりゅん
ドゥシ ニバ ウン チュヌ ワカリュン
dusi niba ʔuN ʔcjunu ‘wakarjuN
友人を見れば、その人がわかる
その人の友人たちを見れば、およそその人がどんな人かがわかる。なぜなら性質の似た者同士が友人になりやすいのであるから。本土の「似たるを友とす」「善悪は友を見よ」に類する。
妻 貰ゆん 時や 中 選べ
トゥジ ムラユン トゥキヤ ナカ エラブィ
tuzi murajuN tuʔkija naka ‘jerabϊ
妻をもらうなら、姉妹のうち中の娘をえらべ
姉妹の、中の娘はものの見方も公平で客観的な判断力をもつ。
トゥジカムィヤ ウヤニー インコイヤ イリニー
tuzikamɪ̈ja ʔu’ja ni: ʔiNkoʔija ʔirini:
和訳
解説
同士と あんまり ふらゐば あとや ふらゐくじりゅん
ドゥシトゥ アンマリ ホラウィバ アトヤ ホレックジリュン
dusitu ʔaNmari horawϊba ʔatoja horёqkuzirjuN
ともだちとあまりにも慣れ親しみすぎると、あとは慣れ親しみすぎたがゆえの破局がくる
「ふらゆん フラユン[hurajuN]」とは古語で「惚れ合う。親しみ合う」の意である。同性愛とも思われるような友人関係は、あとで破局がくる。
年ぬ 六つ違い 八つ違いや もつれて やつれん
トゥシヌ モーツィチガイ ヤーツィチガイヤ モツィリティ ヤツィリリュン
tusinu mo:cϊcigai ‘ja:cϊcigaija mocёretϊ ‘jacёrϊrjuN
歳が六つちがいの夫婦、八つちがいの夫婦は、夫婦仲がもつれて破れてしまう
モーツィ[mo:cϊ](六つ)と モツェレ[mocrёe] (もつれ)、ヤーツィ[‘ja:cϊ](八つ)と ヤツェレ[‘jacёre](破れ・やつれ)の語呂合わせのことわざとも思われる。
妻や あて木
トゥジヤ アテグィ
tuzija ʔategϊ
妻は枕木のようなもの
女房というのは、亭主を下から受けてささえる役目。おもてに出しゃばらず、かげで苦労するものである。本土の「内助の功」に類する
夫婦 合えば 木ん梢なんてん 暮らさりゅり
トゥジュトゥ オウィバ カレギン ハナナティン クラサリュリ
tuzjutunu ʔowϊba karegiN hananaNtϊN ʔkurasarjuri
夫婦が和合すれば、木の梢ででも暮らしていけるのだ
想像を絶するような苦境でも助け合って暮らしていける。前出 0574 に類する。
トゥジュトゥ ユザイヤ ユカンシャナンティ インマヤヌニシ ワラユン
tuzjutu ‘juzaʔi’ja ‘jukasjanaNtϊ ʔiNmajanunisi ‘warajuN
夫婦げんかがはじまると、床下で犬や猫が笑う
はでな立ち回りを演じる夫婦げんかをさけて床下に逃げこんだ犬や猫が苦笑しているとの表現。ユーモラスなことわざである。
夫婦いさかいや 家内ぬ けがれ
トゥジュトゥイサケヤ ヤウチヌ クィガレ
tuzjutuʔisakeja ‘jaʔucinu kϊgare
夫婦げんかは、家のけがれ
夫婦げんかをすると家がけがれる。家がけがれると不幸がくる。本土の「夫婦げんかは貧乏の種まき」に類する。
夫婦どれや 犬ねん(犬しま) 食まん
トゥジュトゥドレヤ インネン(インシマ) カマン
tuzjutudoreja ʔiNsima(ʔiNneN) kamaN
夫婦げんかは犬さえ食わない
たあいもない、つまらぬことからおこることが多いので、いかもの食いの犬でさえ見向きもしない。犬でさえ見向きもしないものを仲裁にはいったりするな。ほっておけ。本土の「夫婦げんかは犬さえ食わぬ」と同じ。
トゥジュトゥドレヤ インマヤンニマ キカスィナ(キカスナ)
tuzjutudoreja ʔiNmajaNnima ʔkikasϊna(ʔkikasuna)
和訳
解説
夫婦や かしゃと 餅
トゥジュトゥヤ カシャトゥ ムチ
tuzjutuja kasjatu muci
夫婦は一体である
夫婦は月桃餅の葉と餅のようにぴったりひっついた存在である。
夫婦や 礁なんてん 暮らさりゅり
トゥジュトゥヤ スィー ナンティン クラサリュリ
tuzjutuja sϊː naNtϊN ʔkurasarjuri
夫婦というのは、愛があれば互いに助け合って暗礁の上ででも暮らしていけるのだ
※「礁ん先 スィン ハナ[sϊN hana] 」とは、サンゴ礁の上、素足ではとても立てないところ。
夫婦や 礁ん先なんてん 暮らさりゅり
トゥジュトゥヤ スィン ハナナンティン クラサリュリ
tuzjutuja sϊN hananaNtϊN ʔkurasarjuri
夫婦というのは、愛があれば互いに助け合って暗礁の上ででも暮らしていけるのだ
※「礁ん先 スィン ハナ[sϊN hana] 」とは、サンゴ礁の上、素足ではとても立てないところ。
自分ぬ 子 捨てれば 道 迷ゆん
ドゥヌ クヮ スィティルィバ ミチ マヨユン
dunuʔkwa sϊʔtϊrϊba mici majojuN
自分の子を捨てると、あとで自分が道に迷うことになる
わが子を捨てるなど人の道に反したことをする者は、いずれはわが身が迷いの道に踏み込んで、哀れな人生を歩むことになるのだ。
自分ぬ 目鼻 されてから 他人の 事(ば) 言い
ドゥヌ ムィハナ サレティッカラ チュヌ クトゥ(バ) イー
dunu mϊhana saretϊqkara ʔcjunu kutu(ba) ʔi:
自分の目や鼻をきれいにさらってから、人のことを言え
自分の身をつつしみ、自分の汚れをおとしてから、他人の悪口を言うがよい。自分のことは棚にあげて、人の悪口ばかり言うなの意。
ドゥヤ カナシャネン キモブクルドゥ カナシャ
duja kanasjaneN ʔkimobukurudu kanasja
和訳
解説
自分や 損 なてん 他人 損 なすな
ドゥヤ ソン ナティモ チュヤ ソン ナスナ
duja soN natϊmo ʔcjuja soN nasuna
自分は損をしても、人に損をさせるな
自分は損をしてもよいが、自分のやったことで他人にまで迷惑をかけてはならない。
どやさん むんなん 猫ぬ 子生し
ドゥヤサン ムンナン マヤヌ クヮーナシ
dujasaN muNnaN majanu ʔkwa:nasi.
たやすく済むのは猫の出産
猫はいとも簡単に子猫を生む。たんに「猫ぬ子生しじゃがな。マヤヌ クヮーナシ ジャガナ。majanu ʔkwa:nasi zjagana 」とも用いる。ものごとがいたって簡単にできることのたとえ。
どやさん むんなん 猫ぬ 子生しぬあっかな
ドゥヤサン ムンナン マヤヌ クヮーナシヌアッカナ
dujasaN muNnaN majanu ʔkwa:nasinuʔaqkana
たやすく済むのは猫の出産
猫はいとも簡単に子猫を生む。たんに「猫ぬ子生しじゃがな。マヤヌ クヮーナシ ジャガナ。majanu ʔkwa:nasi zjagana 」とも用いる。ものごとがいたって簡単にできることのたとえ。
喧嘩や 始めなんて しれ
トゥライヤ ハジムェナンティ スィルィ
turaija hazimёnaNtϊ sϊrϊ
けんかは最初のうちでやっておけ
最初のうちにけんかしておけば、かえって気心がわかって、あとは無事につき合うことができる。最初から言いたいことを遠慮してこらえていると、かえってわだかまりが生じる。
トゥリ イリランインマ ヒマツィスィルィ
turi ʔiriraNʔiNma himatϊsϊrϊ
和訳
解説
鳥なんて えせさや ガラス、 魚なんて えせさや チヌ
トゥリナンティ エセサヤ ガラスィ、 イュナンティ エセサヤ チン
turinaNtϊ ‘jesesaja garasϊ, ʔju:naNtϊ ‘jesesaja ciN
鳥の中で口がいやしいのはカラス、魚の中で口がいやしいのはチヌ
鳥の中での食いしんぼう第一位はカラス、魚の中での食いしんぼう第一位はチヌ。
鶏ぬ 羽重ね
トゥリヌ ハガサネ
turinu hagasane
にわとりの羽が重なっているように(にわとりの翼は無数の羽毛が重なってできている)災難が重なってくるたとえ
借金をして新築した家が焼け、女房が流産したあげく病気になり、娘が婚家先から帰されるなど、つぎつぎと悪いことがおこることをいう。 ※奄美では生活の上での禁忌(タブー)が多いので、それらの禁忌に触れた場合、「鶏の羽重ね」のように災いがくると信じられていた。
取り分や 撫でて 取れ
トゥリブンヤ ナデティ トゥルィ
turibuNja nadetϊ turϊ
取り分は、相手をなでて取れ
取り分があれば、威丈高に相手をおどして取るのではなく、やさしく懐柔しながら取るがよい。
鳥や 食でも トゥーリや 食むな
トゥリヤ カディモ トゥーリヤ カムナ
turija kadϊmo tu:rija kamuna
鶏は食べてもその肺臓は食べるな
鶏の肺臓は食べてはならない。鳥 turi に対して長音のトゥーリ[tu:ri]を用いてことわざを構成している。本土の「鳥は食うともドリ食うな」と同じ。肺臓は方言でフク[huʔku]というから、このことわざは本土からの流入であろう。
鶏や 半分わけ、 卵や 得
トゥリヤ ハンブンワケ、 タマゴヤ トゥク
turija haNbuN’wake, tamagoja tuʔku
ひとの鶏を預かって自家で飼育する場合、ひよこが増えて成鶏になったのは半分わけ、たまごは飼育者の得となる
鶏を飼い分けするときの分配法。
倒れ馬ぬ なから 奔れ馬
トーレマーヌ ナカラ ハシリマー
toːreʔmaːnu nakara hasiriʔmaː
(直訳)倒れかかっている馬から奔馬が出る。
病弱な親馬から駿馬が生まれる。駄馬が名馬を生む。親よりもすぐれた子ができることのたとえ。親に似ぬ美形の子や、親に似ぬ才子をたとえていう。「遅馬ら早馬ぬ 出じん。 ウスマラ フェーマヌ イジン。qqusuqqmara hwSWHHqqmanu qqiziN」ともいう。
本土の「とびが鷹の子を生む」に類する。
大根や 仇んじ 引きゃせ
ドコネヤ カタキンジ ヒキャスィ
dokoneja kataʔkiNzi hiʔkjasϊ
大根の間引きは敵対関係にある者にさせよ
憎しみをもってこれでもか、これでもかと引くので、うんと引いてくれる。大根の間引きは引けば引くほどよいのだ。
前出「青菜や仇んじ引かせ」に類する。
南瓜ぬ 天 向かて 実れば 家内ぬ 変
トツィブルヌ ティン ムカティ ナルィバ ヤウチヌ ヒン
tocϊburunu tϊN mukatϊ narϊba ‘jaucinu hiN
カボチャが天を向いて(さかさまに)に実れば、その家に凶事がおこる
※カボチャのつるが藁小屋などに伸びて、その実が藁屋根のくぼみにさかさに居坐って成長したりする場合がある。めったにないことなので凶事に結びつけたのであろう。
南瓜や 女郎
トツィブルヤ ゾレ
tocϊburuja zore
南瓜は女郎
カボチャはどこにでも生育するので、たいていの農家で栽培され、その実はどこにでも見られた。あちこちに実っていることを、「アマ ムカイ クマ ムカイシ ナトゥン。qqama mukai kuma mukaisi natuN」 という。「あっちを向き、こっちを向き(して)実っている」の意である。女郎が自分のおしろい顔を、どこへでも向けて人の目をひこうとするから、このことわざができたのであろう。
とのきんぬ 根取り台風
トノキンヌ ニートゥリティホ
tonoʔkiNnu niːturi tϊho
コーリャンの根元が台風ですっかりとれてしまう
解説
豆腐ち 釘
トホチ クギ
tohoci ʔkugi
豆腐に釘
意見などいくらしても反応がなく、ききめがない。いくらやっても手応えがなく、むだなことのたとえ。このことわざを使うときは、~ジャガ[zjaga] と用いる。本土の「豆腐にかすがい」「ぬかに釘」に類する。
甘藷 うち切りべり しゅんや 目はが夫しま 持たらん
トン ウチキリブェーリ シュンヤ ムィハガウトゥシマ ムタラン
toN ʔuciʔkiribёːri sjuNja mϊhaga’utusima mutaraN
イモ掘りで、イモをうち切ってばかりいる娘は、目ただれのしょぼしょぼ亭主しか持てない
※奄美のイモ畑には畝がないので、掘るときに注意しないと鍬でイモを切ったりいためたりすることがある。イモ掘りは女の仕事のひとつで、娘たちがよくイモ掘りにでかけた。イモ掘りさえ満足にできない娘は、とても満足な夫は探せない。せいぜい目ただれのうだつのあがらぬ男の嫁にしかなれないの意。
甘藷ぬ 太さと 女の 太さとや うち ごか
トンヌ フィーサトゥ ウナグヌ フィーサトゥヤ ウチ ゴカ
toNnu hwϊːsatu ‘unagunu hwϊːsatuja ʔuci goka
サツマイモの大きすぎるのと、女の大きすぎるのは、中味がからっぽ
※大きすぎるサツマイモと、大女は敬遠される。イモは手ごろの大きさが味がよいとされ、女も女としてほどよい体格がよいとされている。
甘藷ぬ ほでらんちや 貧乏者ぬ 言ゅん 事
トンヌ ホデランチヤ ビンボムンヌ イュン クトゥ
toNnu hoderaNcija biNbomuNnu ʔjuN kutu
イモがふとらないとは貧乏人の言うことだ
サツマイモは、だまっていても大きくなるものだ。
※サツマイモは、奄美では畝をつくらず掘り出していく一方、植えていくので、春夏秋冬栽培できる。季節ものではない。貧乏人はサツマイモが大きくならないうちに掘り出すから、当然小さいイモしかとれないのである。