石崎公曹の奄美のことわざ

「あ」から始まる言葉

秋ぬ 茄子や 嫁んじや 見しるな

アキヌ ナスィビヤ ユムィンジヤ ニシルナ

ʔaʔkinu nasϊbija ‘jumϊNzija nisiruna

秋のなすは、嫁には見せるな

秋のなすは美味だから、嫁に見せてはならぬ 嫁に食べさせてはならぬ。「嫁んじ 秋茄子 食すな ユムィンジ アキナスビ カマスナ ‘jumEINzi qqaqqkinasubi kamasuna.(嫁に秋のなすびを食べさすな)」ともいう。


悪事や 千里ちど 言っか

アクジヤ シェンリチドゥ イュッカ

ʔaʔkuzija sjeNricidu ʔjuqka

悪事は千里を走るというではないか

※-チドゥ イュッカ[-cidu ʔjuqka](~というではないか)は、ことわざのあとにつけて強調し、念を押すための常套句 すべてのことわざのあとにつけてもよい。 本土の「悪事千里を走る」と同じ。


眠さ だるさや 四五月ぬ 七月妊み

アグマシャ ダルサヤ シゴグヮツィヌ ナナツィキバラミ

ʔagumasja darusaja sigogwacϊnu nanatϊʔkibarami

眠たく、だるいのは、旧四五月ごろの妊娠七ヵ月の妊婦

妊娠七ヵ月の女は、四、五月ごろは昼間でも眠たく、しかも身体がだるいものである。 そっとしておいてやるのがよい。


朝歌 貧乏

アサウタ ビンボ

ʔasaʔuta biNbo

朝のうちから歌を歌って遊んでいる者は、いつかは貧乏になるものだ

朝から歌遊び(奄美では三味線にあわせた歌の席)をするものではない。 歌遊びは夜にするものである。 本土の「朝謡は貧乏の相」と同じ。


朝茶(ぬ) 一服(や) 急場 外しゅん

アサチャ(ヌ) イップク(ヤ) キューユ ハズィシュン

ʔasacja(nu) ʔiqpuku(ja) ʔkjuː’ju hazϊsjuN

朝茶の一服は、その日の危難をはずすことになる

なにはともあれ、その日の安全のためにも、朝のお茶の一服は大事なことである。


朝寝ぬ 貧乏、 夜わかし? 馬鹿

アサネヌ ビンボ、 ユワカシ バカ

ʔasanenu biNbo,’juwakasi baka

朝寝をする者は、仕事をも怠けて貧乏になるのがおちである

また、反対に夜更かしをする者は、常規を逸した阿呆のすることである。 ※沖縄「朝寝 貧乏 昼寝 病(あさに びんぼう ふぃんに やんめぇ)」


朝晴れや 雨

アサバレヤ アムィ

ʔasabareja ʔamϊ

朝、晴れていたら、あとでその日は雨になる


朝光ぬ ぬざぐるしゃ

アサビキャリヌ ヌザグルシャ

ʔasabikjarinu nuzagurusja

朝、東天がはれて陽光があらわれていると、たいていその日は雨がやってくるので、なんともやり切れない思いがする

雨に打たれながらの農作業をしなければならないのかと思うと、切ない思いである。 ※富農の家に属する ヤンチュ[‘jaNqqcju](家人・農奴)たちの心情であろう。


朝百足 夜蜘蛛

アサムカデ ユルクブ

ʔasamukade ’juru kubu

朝、ムカデを見たら好運、夜にクモを見たら好運

どちらも縁起のよいものとされている。 かやぶきの農家ではムカデやクモに出会うことが多い。 ここでいうクモは、ヤンクブ[‘jaNkubu](家ぐも)のことである。 ムカデはともかくも、ヤンクブ[‘jaNkubu]はその奇怪な姿にもかかわらず親しまれている ユルクブ‘jurukubuは「よろこぶ」にかけた表現であろう。


朝焼けや 雨   夕焼けや 日和

アサヤケヤ アムィ ユーヤケヤ ヒャーリ(ヒャーレ)

ʔasajakeja ʔamϊ ‘juːjakeja hjaːri(hjaːre)

朝焼け空は、あとで雨になる

夕焼け空は、翌日は好天気。 ※本土でも、沖縄でも同じ意味のことわざがある。 沖縄では「朝焼きや雨」。


遊び人ぬ  一日働き

アスィビッチュヌ チーバタラキ

ʔasϊbiqcjunu ci:bataraʔki

怠け者の一日働き

怠け者は気負って働いても、たった一日だけである。あとは続かない。本土の「無精者の一日働き」に類する。


交手(あぜてぃ)や 為らん むん(ど)

アゼティヤ スィラン ムン(ドー)

ʔazetϊja sϊraNmuN(doː)

交差手はしない 他人の手と自分の手が交差してはいけない

目の前で、他人が手を動かして何かをしているときに、自分の手をその上方や下方に差し出してはいけないの意。 たとえば、他人が箸を用いて団子をつまもうとしているとき、自分も手を差し出して相手の手と交差させてはいけないのである。気づかずに、または同時に差し出した手が交差しようとすると、島の人は思わずハッと自分の手をひっこめるように習慣づいている。「お先にどうぞ」という儀礼的なものではなく、なにか宗教的なタブーに近いものが感じられる。


当たてぃ 砕けるぃ

アタティ クダケルィ

ʔatatϊ kudakerϊ

当たって砕けろ

思案して、いたずらに時を過ごすよりは、思い切って事に当たれ 。 まず、やってみることだ。


仇や 回り砥石

アダヤ マワリトゥイシ

ʔadaja mawari-tu’isi

敵対関係にある人は、回り砥石のようなものだ


仇や 呼び止めてでん 挨拶 すれ

アダヤ ユビトゥムティデン イェーサツィ スィルィ

ʔadaja jubitumutideN ʔjeːsacϊ sϊrϊ

敵対関係にある者に対しては、呼びとめてでもあいさつを交わすがよい


熱さ さまし ねたさ こねれ

アツィサ サマシ ヌィタサ コネルィ

ʔacϊsa samasi nϊtasa konerϊ

熱いものはさますがよい

腹立ちは、こらえよ。 熱いときには、これを冷やすがよい。 腹が立つときには、ぐっと我慢してこらえるがよい。


歩き者の 糞踏み

アッキムンヌ クスクミ

ʔaqʔkimuNnu ʔkusuʔkumi

よく出歩く者は、糞を踏んづけてしまう

あちこち出歩く者は、とんでもないことに出会うものだ。


歩きゅん 足や 犬ぬ 糞 踏みゅん

アッキュン ハギヤ インヌ クス クミュン

ʔaqʔkjuN hagija ʔiNnu ʔkusu ʔkumjuN

よく出歩く者は、糞を踏んづけてしまう

あちこち出歩く者は、とんでもないことに出会うものだ。 ※本土の「犬も歩けば棒に当たる」に類する。


歩きゅんど 糞踏みゅん

アッキュンド クスクミュン

ʔaqʔkjuNdo ʔkusu ʔkumjuN

よく出歩く者は、糞を踏んづけてしまう

あちこち出歩く者は、とんでもないことに出会うものだ。


アッタロ蛙(ハッタロ蛙)ぬ 鳴きば 雨

アッタロビッキャ(ハッタロビッキャ)ヌ ナクィバ アムィ

ʔaqʔtaro(haqʔtaro) biqʔkjanu naʔkϊba ʔamϊ

雨がえるが鳴けば、雨になる

北部では、雨がえるをアッタロビッキャ[qqaqqqtaro-biqqqkja]という。 その声は ガクガク[gaqqku gaqqku]と鳴くので、別名 アマガク[qqamagaqqku]ともいう。


あてらんゆり(も) かじむぃるぃ

アテランユリ(モ) カジムィルィ

ʔatϊraNjuri(mo) kazimϊrϊ

与えてやるよりも、しまっておけ

子どもに新しいものをすぐに買ってやるようなことはせず、ほんとうに必要なときまでは隠してしまっておけ。


後なり者ぬ 味噌樽 担き

アトナリムンヌ ミスダル カッキ

ʔatonarimuNnu misudaru kaqʔkϊ

後になる者はくそを掴むことになる

人よりおくれる者、人伍におちる者は、何事につけ損をする立場におかれるものである。 みずから進んで仕事の役割を引き受けないで、後からノコノコ顔を出すと、味噌樽運搬の役目をおしつけられたりするものである。 味噌樽担ぎは汚く臭い役目である。


朝曇や 大日和

アマグルンヤ ウービャーリ

ʔamaguruNja ʔuːbjaːri

朝のくもり空は、あとで好天気になるものだ

奄美の冬期1、2月の天気のことであろうか。 「朝ぐもりや しわやいらん アサグモリヤ シワヤ イラン qqasagumorija siwaja qqiraN.(朝ぐもりは心配に及ばぬ)」ともいう。 本土の「朝ぐもり昼ひでり」と同じ。


あまさてん 汁

アマサティン シル

ʔamasatϊN siru

味がうすくても、汁は汁なのだ

いくら味が悪くても、ご飯といっしょに食べなければならない。 質のよしあしを問うてはならない。


あまさてん 汁や 汁

アマサティン シルヤ シル

ʔamasatϊN siruja siru

味がうすくても、汁は汁なのだ

いくら味が悪くても、ご飯といっしょに食べなければならない。 質のよしあしを問うてはならない。


あまむんや 一人 あぐましむん?や 群れて

アマムンヤ チューリ、 アグマシムンヤ ボレティ

ʔamamuNja ʔcjuːri ʔagumasimuNja boretϊ

おいしいごちそうは、ひとりで食べるのがよい

難儀な仕事は、大勢でやったほうがよい。 ごちそうは、ひとり占めで誰にも分けてやらず、ゆっくり落ち着いて食べたいものだ。 つらい仕事は、ひとりだけ無理をしないで、みんなといっしょに分けあってやりたいものである。


余り人ぬ 世話 すんな(すんなよー) 足なん 馬つなぎゅんど(馬つなぎゅん事なりど)

アマリッチュヌ シワ スィンナ(スィンナヨー) ハギナン マーツィナギュンド(マーツィナギュンクトゥナリッドー)

ʔamariqʔcjunu siwa sϊNna(sϊNnajoː) haginaN maːcϊnagjuNdo(maːcϊnagjuNkutunariqdoː)

嫁入りおくれの世話をするのは、足に馬をつなぐようなもの

婚期おくれの女を世話して他家へ嫁がせると、その世話をした者はあとで足につないだ馬にひきずり回されるような、ふんだりけったりのひどい目に会わされる。 あとで、なにかと問題が生じて、仲人は大変苦労させられる。


雨降りんや 草履 作れ 晴天んや 下駄 作れ

アムィフリンヤ サバ ツィクルィ ヒャーリンヤ ゲタ ツィクルィ

ʔamϊhuriNja sabacϊkurϊ hjaːriNja getacϊkurϊ

雨が降るときは、(晴天にはく)草履を作れ 晴れの日には、(雨天にはく)下駄を作れ

本土の「治にいて乱を忘れず」に類する。


雨や いなさん(いなかん) 木ん 下なんて はらせ

アムィヤ イナサン(イナカン) クィン シャナンティ ハラスィ

ʔamϊja ʔinasaN(ʔinakaN) kϊN sjanaNtϊ harasϊ

雨は小さな木の下で晴れるのを待て

雨やどりは小さな木の下で。 ※落雷をさけるためであろうか。 アムィハラシュ[qqamEI harasju](雨を晴れさせる。雨やどりをする)。


あらびき 焼かん 人とや 旅 しんな

アラビキ ヤカン チュトゥヤ タビ スィンナ

ʔarabiʔki ‘jakaN ʔcjutuja tabi sϊNna

脛の灸点に灸を据えていない人とは、いっしょに旅をするな

長途の旅に出るのに、三里の灸をすえていない人と道づれとなっては、あとでその人の足が弱くなって、世話をしてやらなければならなくなってしまうぞ。※アラビキ[qqarabiqqki]は、三里のツボから足首へかけて三ヵ所の灸点。


有りば 有ん くらし 無んば 無ん くらし

アルィバ アン クラシ、 ネンバ ネン クラシ

ʔarϊba ʔaN kurasi,neNba neN kurasi

食べ物が)あれば、あるに合わせた生活、なければ無いに合わせた生活

あくせくせず、ぜいたくにあれば、それなりにぜいたくな暮らしをし、窮乏すれば、また、それなりにつつましい暮らしをする。 自嘲的に自分の家についていうなら、「ゆきあたりばったりの気ままな暮らし、それでよいではないか」の意となる。


有ん 癖や 言ゃんむんど? 無ん 癖ど 言ゅんむんど

アン クセ ヤ イャンムンドー  ネン クセドゥ イュンムンドー

ʔaN ʔkuseja ʔjaNmuNdoː neN ʔkusedu ʔjuNmuNdoː

その人が本当に持っている癖(欠点・欠陥)を、あからさまに指摘するものではない

癖を言うとすれば、その人にはない癖を言ってやるがよい。誰でも自分の欠点は気がついているものである。それを指摘されると気分のよいものではない。だから、その人の致命的な欠陥の指摘をせず、その人にはない欠陥を言ってやるのがよい。


有ん 癖(や) 言うな(よー)  無ん 癖 言い(よ)

アン クセ(ヤ) イューナ(ヨー)  ネン クセ イー(ヨ)

ʔaN ʔkuse(ja) ʔjuːna(joː) neN ʔkuse ʔiː(jo)

その人が本当に持っている癖(欠点・欠陥)を、あからさまに指摘するものではない

癖を言うとすれば、その人にはない癖を言ってやるがよい。誰でも自分の欠点は気がついているものである。それを指摘されると気分のよいものではない。だから、その人の致命的な欠陥の指摘をせず、その人にはない欠陥を言ってやるのがよい。


有ん 袖ど 振られる  無ん 袖ぬ 振られんにゃ?

アン スディドゥ フラレル  ネン スディヌ フラレンニャ

発音英語

和訳

解説


有ん 中ぬ 倹約

アン ウチヌ ケンヤク

ʔaNʔucinu keNjaku

あるうちの倹約

何でも豊富にあるうちに、倹約というものをしておかなければならない。倹約は、品物がたくさんあるうちにしておくものである。


有んち 喜ぶな  無んち 泣くな

アンチ ユルクブナ  ネンチ ナクナ

ʔaNci ‘jurukubuna neNci nakuna

わが家に物資が豊富にあるといって、手放しで喜ぶな

無いといって、気を落として泣いたりするな。どこの家計にも、暮らし向きのよい、悪いの波はありがちなものである。常に平常心でのぞめ。
本土の「武士は食わねど高楊枝」に類する。

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