石崎公曹の奄美のことわざ
「ち」から始まる言葉
一日 遅りぬ 十日 遅れ
チー ウクルィヌ トゥーカ ウクルィ
ciː ʔuʔkurϊnu tuːka ʔuʔkurϊ
一日遅れると、その結果として十日も遅れることになる
一日の手抜かりが十日の遅れを生じることもある。
一日 遅れりば 三年 遅りん
チー ウクルィルィバ ミトゥシ ウクルィン
ci: ʔuʔkurϊrϊba mitusi ʔuʔkurϊN
わずか一日のおくれをとると、結果として三年のおくれになる。
近さてん 恋路 遠さてん 恋路
チキャサティン クイジ トゥーサティン クイジ
ciʔkjasatiN kuizi tuːsatiN kuizi
恋人が近くに住んでいても、自由に会えずに思いが募れば遠い恋路となる
恋人が遠くに住んでいて、道は遠いが、思いが募れば一気に会いにいく近い恋路となる。募る思いは遠近にかかわらず同じであるのが恋路というもの。
チャーヌウリ フリジャシュンアムィヤ ウンヒナンティヤ ハレラン
cja:nuʔuri hurizjasjuNʔamϊja ʔuNhinaNtija hareraN
和訳
解説
茶碗皿 見しど 食事 食みゅり
チャヂャワンサラ ニシドゥ ムン カミュリ
cjaʤjawaNsara nisidu muN kamjuri
よその家で食事をするときは、その家の茶碗や皿を観察して、食事をするものである
茶碗や皿など、食卓の食器類によってだいたい貧富が見分けられるから、それに応じて、食事の量を加減すべきものである。※食生活の豊かな金持ちの家なら、何度おかわりをしてもよいが、食生活の乏しい貧乏な家では、おかわりは控えて、軽くすませるように留意するがよい。
人 敬ゆっと 人んじ 敬われん
チュ ウヤマユットゥ チュンジ ウヤマワレン
ʔcju ʔujamajuqʔtu ʔcjuNzi ʔujamawareN
人を敬うと、人に敬われる
人に対してつつしみ深く礼儀正しくすれば、人から自分もつつしみ深く礼儀正しく遇される。
チュ ミシャ―リ ソロティ チュ カージ ユーナ
ʔcju misjaːri soroti ʔcju kaːzi ‘juːna
和訳
解説
人 使ゆん 人や 片目 片耳 塞げ
チュー ツィカユン チュヤ カタムィ カタミン クサグィ
ʔcjuː cϊʔkajuN ʔcjuja katamϊ katamiN kusagϊ
人を使う者は、片目と片耳をふさげ
使用人は、とうてい雇用主の思い通りには働いてくれない。使用人どものなまぬるい仕事ぶりは片目をつぶって見るがよい。また使用人どもは、あらぬ噂や不平を言いがちである。そんな不平不満には片耳をふさいで半分は聞かないようにせよ。
人 丁寧や 自分 丁寧
チュー テーネーヤ ドゥ― テーネー
ʔcjuːteːneːja duːteːneː
人にていねいにすることが、いつかは自分がていねいにされることになる
人に情けをかけて親切にしてあげることは、めぐりめぐって自分の身にかえってくる。本土の「情けは人のためならず」に類する。
人 恥じらん 者や 里芋ん葉面
チュー ハジラン ムンヤ オモンハズィラ
ʔcjuː haziraN muNja ʔomoNha-zϊra
恥知らずは鉄面皮
人に対して恥ずかしいとの気持ちを持たぬやつは、里芋の葉みたいな面だ。里芋の葉が広く、青々として風にそよいでいるさまを鉄面皮にたとえている。恥を知らぬやつは、しゃあしゃあとして、いかにも里芋の葉っぱ面をして大きく構えていられるものだ。
人 雇ゆんだれば 五六月 雇え
チュー ヤトユンダルィバ ゴロックヮツィ ヤトウィ
ʔcjuː ‘jatojuNdarϊba goroqʔkwacϊ ‘jatowϊ
人を雇うのであれば、旧五六月の日の長い頃に雇え
五六月は田畑の仕事もいろいろと多いし、日中も長いので、人を雇えば得をする。
他人言いや 自分言い
チューイーヤ ドゥーイー
ʔcju:ʔi:ja du:ʔi:
他人を言う(批評する)のは、自分を言う(批評するのとおなじ)
他人のことをいちいち批評したり、あしざまに言ったりする者は、同様に他人からいちいち批評されたり、あしざまに言われたりすることになるのだ。他人のことを悪く言うのは、結局は自分のことを悪く言うのとおなじことである。本土の「人を呪わば穴ふたつ」「人を傷る者はおのれを傷る」に類する。
チューカナシャスリバ ドゥーカナシャスィルィ
cju:kanasjasϊrϊba du:kanasjasϊrϊ
和訳
解説
一釜ぬ 飯 食まんうちや 人ぬ 心や 知りらん
チューカマヌ ムン カマンウチヤ チューヌ コロヤ シリラン
ʔcjuːkamanu muN kamaNʔucija ʔcjuːnu koroja siriraN
いっしょに生活して同じ釜の飯を食べなければ、人の心はわからない
同じ釜の飯を食べて、はじめて互いの心が理解できるようになる。
本土の「同じ釜の飯を食う」と同じ。
チューグトゥ イーバ ワンチ オモウィ
ʔcjuːgutu ʔiːba ‘waNci ʔomowϊ
和訳
解説
人助けが 自分助け
チュータスィケガ ドゥータスィケ
ʔcjuːtasϊʔkёga duːtasϊʔkё
人を助けることが自分を助けることとなる
困っている人を助けてやれば、いつかはめぐりめぐって自分が助けられることにもなる。本土の「情けは人のためならず」に類する。
人たまがりや あてん 物たまがりや しんな
チュータマガリヤ アティン ムンタマガリヤ スィンナ
ʔcjuːtamagarija ʔatϊN muNtamagarija sϊNna
人をこわがることはあっても、物の怪をこわがったりするな
人には盗人あり、奸計者あり、人殺しありで、鬼のようなのがたくさんいるから、恐れてもよい。だが、物の怪なんて、いはしないのだから、恐れてはならない。
人ど 鬼
チュードゥ オニ
ʔcjuːdu ʔoni
人が鬼だ
残酷残忍な鬼というのは、物語の世界にしかいない。人間こそが鬼なのだ
チューヌ カフドゥ ワー カフ
発音英語
和訳
解説
人ぬ 心や 物かまし わかりゅり
チューヌ ココロヤ ムンカマシ ワカリュリ
ʔcjuːnu kokoroja muNkamasi wakarjuri
和訳
解説
人ぬ 心や わが 心
チューヌ ココロヤ ワガ ココロ
ʔcjuːnu kokoroja ‘waga kokoro
人が心に思うことをわが心として受け取れ
惻隠の情を持て。人の悲しみ、人の苦しみを、わが悲しみ、わが苦しみと思ってその人の立場を理解してあげなさい。本土の「わが身をつねって人の痛さを知れ」に類する。
人ぬ 先 なん 物 言うな
チューヌ サキ ナン ムン イューナ
ʔcjuːnu saʔki naN muN ʔjuːna
人々の先頭切って発言するな
先頭切って物を言ってはいけない。先に言い出しては慎重を欠くばかりか、言ったことに全責任をとらされることにもなるのだ。
人の先と 天気の先とや 一寸先も わからん?
チューヌ サキトゥ テンキヌサキトゥヤ イッスンサキモ ニャーラン?
ʔcjuːnusaʔkitu teNʔkinusaʔkituja ʔiqsuNsaʔkimo njaːraN
人の先と天気の先とは、一寸先もわからない
解説
チューヌ タムィナリバ? ドゥーヌ ハギナン マーツナギ
発音英語
和訳
解説
人ぬ 頼りが わが 頼り
チューヌ タヨリガ ワガ タヨリ
ʔcjuːnu tajoriga ‘waga tajori
人の便宜を計ってやることが、ひいては自分のためにもなる
いろいろと人のためになるように計らってやると、人もまた自分のためにいろいろと便宜を計ってくれるものである。
人ぬ 股ばすぬ 下らが 歩け
チューヌ マタバスィヌ シャーラガ アックィ
ʔcjuːnu matabasϊnu sjaːraga ʔaqʔkϊ
人の股の下を歩け
人の股の下をくぐるような気持ちで、いばらず、耐えるに耐えてこの世を渡れ。
チューヌ ユムィナルィバ ミス カムィ
ʔcjuːnu ‘jumϊ narϊba misu kamϊ
和訳
解説
人ぼれ 姑ぼれ
チューボレ スィトゥボレ
ʔcjuːbore sϊtubore
人との親しみ合い、姑との親しみ合い
嫁入りしたなら、まず婚家先の隣り近所の人々との親しい交際と、姑との睦み合いが大切である。
人や 一代 名や 万代
チュヤ イチデ ナヤ マンデ
ʔcjuja ʔicide naja maNde
人の生きるのは一代かぎりであるが、名は万代までも残るものである
名を万代の後の世まで残すような一代(一生)でありたいものである。本土の「人は一代、名は末代」「身は一代、名は末代」と同じ。
人や 恐るかん むんち 思へ
チュ―ヤ ウトゥルカン ムンチ オモウィ
ʔcjuːja ʔuturukaN muNci ʔomowϊ
人は恐ろしいものと思え
人は知れぬもの、うっかり信用して心を許してはならない。本土の「人は知れぬもの」に類する。
人や 肝心
チュヤ キモゴコロ
ʔcjuja ʔkimogokoro
人は精神
人や肝心、馬牛や力
チュヤ ココロ、マーウシヤ チキャラ
ʔcjuja kokoro,ʔmaːʔusija ciʔkjara
人は精神、馬牛は力
人間は精神の持ちようが大切であり、牛馬は使役の際の力が大切である。人と畜生との違いはここにある。
人や しこしぬ むん
チュヤ シコシヌ ムン
ʔcjuja siʔkosinu muN
人はよそおい
人は服装や化粧次第。どんな人でも身なりをととのえれば、立派に見えるものである。本土の「馬子にも衣裳」に類する。
人や 人 うかげ、水や 山 うかげ
チュヤ チュ― ウカグェ、ムィズィヤ ヤマ ウカグェ
ʔcjuja ʔcjuː ʔukagё,mϊzϊja ‘jama ʔukagё
人は世間の多くの人々のおかげで生きていくことができる。水は多くの山々のおかげで豊かな量を保つことができる
世間の人々がいなければ、人はひとりでは生きていけないし、水は山がなければ水量を保てない。
人や 人ん 中、田や 田ん 中
チュヤ チュン ナカ、タヤ タン ナカ
ʔcjuja ʔcjuN naka,taja taN naka
人は世間の多人数の中でもまれた人がよく、田は広い水田地帯の中ほどにある田がよい
本土の「人は人中、田は田中」と同じ。
人や 人んなれ、馬や 馬んなれ
チュ―ヤ チュンナレ、マーヤ マンナレ
ʔcjuːja ʔcjuNnare,ʔmaːja ʔmaNnare
人は多くの人の中できたえられて立派な人となる。馬は、多くの馬の中でもまれて育って名馬となる。
チューリ ドゥシチ カナシャ スギラスィバ ジューニンヌ ドゥシ ウシナユン
ʔcjuːri dusici kanasja sugirasϊba zjuːniNnu dusi ʔusinajuN
和訳
解説
一人歩きや 二人連れち 思え
チュ―リアッキヤ ターリゼレチ オモウィ
ʔcjuːri-ʔaqʔkija taːrizereci ʔomowϊ
ひとりで歩くのは、ふたり連れで歩いていると思え
夜道などをひとりで歩くときは、ふたり連れで歩いていると思えばこわくない。
チューリインガヌクヮーヌ ジューニングイ
cju:riʔiNganukwa:nu zju:niNguʔi
和訳
解説
一人女の子や なろし破り
チューリウナグヌ クヮーヤ ナロシヤブリ
ʔcjuːri’unagunu ʔkwaja narosi’jaburi
ひとり娘は過保護でしつけられていない
ひとり娘は厳しいしつけを受けていないので勝手気ままである。
一人女の子ば 嫁 貰うな
チューリウナグヌクヮバ ユムィ ムラウナ
ʔcjuːri’unagunuʔkwaba ‘jumϊ murauna
ひとり娘を嫁に貰うな
ひとり娘はとかくわがままであり、親もまた大事がっているので、嫁に貰ったらろくなことはない。
一人が 引きが 千人ぬ 引き
チューリガ ヒキガ シェンニンヌ ヒキ
ʔcjuːriga hiʔkiga sjeNniNnu hiʔki
ひとりの人に引き立てられることによって、千人の人が引き立ててくれるようになる
ひとりの推薦者のおかげによって、千人もの人の推薦をうけることになる。
ひとりっ子や 打ち 育し
チューリックヮーヤ(チューリクヮックヮヤ/チューリヌクヮックヮヤ) ウッチ ホデスィ
ʔcju:riqʔkwa:(ʔcjuːriʔkwaqʔkwa/ʔcjuːrinu ʔkwaqʔkwa)ja ʔuqci hodesϊ
ひとりっ子は、打って育てよ
ひとりっ子だとて過保護にならないで、むしろ打ち叩いてきびしく育てよ。
チューリヌ ティー フヤシュンユンマ(フヤシュンクマ) チューリヌ クチ ヒラスィ
ʔcju:rinu tϊ: hujasjuNjuNma ʔcju:rinu ʔkuci hirasϊ
和訳
解説
一人者や 分限や ならん
チューリムンヤ ブギンヤ ナラン
ʔcjuːrimuNja bugiNja naraN
ひとり者は金持ちにはなれない
生涯独身を続ける者は、分限者にはとてもなれない。
人笑れぬ 自分笑れ
チューワレヌ ドゥーワレ
ʔcjuː’warenu duː’ware
人を笑うのは自分が笑われること
人を嘲笑すると、いつかは自分が嘲笑されることになる。
一癖ぬ 恩着せ
チュクセヌ ウンキセ(ウンクスィ)
ʔcjuʔkusenu ʔuNʔkise(ʔuNkusϊ)
人に恩をきせるのも、ひと癖である
なにかするたびに、いちいち恩きせがましく言うのも癖のひとつである。
同集落なんじ 家 発てりば、家裏ぬ 里芋ぬ 葉 摘み果てりゅん
チュシマナンジ ヤー タティルィバ、ヤンクシヌ オモヌ ハー ツィミハテリュン
ʔcjusimanaNzi ‘jaːtaterϊba,’jaNkusinu ʔomonu haː cϊmihaterjuN.
同じ集落で娘を嫁にやると、娘がたびたびやって来て、家のうしろの里イモの葉まで摘み取っていってしまう
同じ集落で娘を結婚させると、娘が実家へきて、米だ、醤油だと取りに来て、はては裏の畑の里イモの葉まで摘み果ててしまう。※里イモの葉は食べられないけれど、みるも無残に畑まで荒らされてしまうという適確な表現。
ひと粒ぬ 米らど 家倉や 建てん
チュッツィブヌ クムィラドゥ ヤクラ タテン
ʔcjuqcϊbunu kumϊradu ‘jaʔkura tateN
ひと粒の米の倹約から、家や倉が建てられるのだ
ひと粒の米の倹約からはじまって、やがては家や倉を建てるほどの蓄財ができるのだ。
一手 後れれば 千手の 後れ
チュティ ウクルィルィバ センティヌ ウクルィ
ʔcjutϊ ʔuʔkurϊrϊba sjeNtϊnu ʔuʔkurϊ
仕事の上でひと手おくれをとると、結果として千手も後れをとることになる
ひとつの手抜かりが、千の手抜かりをもたらす結果を招く。なにごとにも油断は禁物。
一年なんて 二人 嫁入すんな
チュトゥシナンティ ターリ ユムィイリ スンナ
ʔcjutusinaNtϊ ʔtaːri ‘jumϊʔirϊ suNna
一年の間に、ふたりも嫁入りさせるな
同じ年に娘をふたりも結婚させるな。大変な出費で家計がつぶれてしまうし、気苦労のため心身ともに疲れ切ってしまうのが落ちだ。
人とや 一から 十がれ きょらぼれ しり
チュトゥヤ イチカラ ジュ―ガルィ キョラボレ スィルィ
ʔcjutuja ʔicikara zjuːgarϊ kjorabore sϊrϊ
人とは一から十まで(最初から最後まで)きれいにつきあえ
人と交際するかぎり、終始円満にきよらかな交際を続けなければならない
人ぬ 後なんて 言ゆんくま 人ぬ 前なんて 言い
チュヌ アトナンティ イュンクマ チュヌ ムェナンティ イー
ʔcjunu ʔatonaNtϊ ʔjuNkuma ʔcjunu mёnaNtϊ ʔiː
人の蔭口を言わず、ちゃんとその人の前で言え
蔭口をたたくことをせず、その人の面前ではっきり欠点を指摘したほうがよい
人ぬ 縁組みなんや 口ばしや 入れんな
チュヌ エングミナンヤ クチバシヤ イルィンナ
ʔcjunu ‘jeNguminaNja ʔkucibasija ʔirϊNna
他人の縁組みの話に、口ばしを入れるな
まとまろうが、まとまるまいが、当事者たちは決してこころよく思わないばかりか、あとでうらみさえするのだ。
人ぬ 恩や 胸なん 留めとけ
チュヌ オンヤ ムネナン トゥムィトゥクィ
ʔcjunu ʔoNja munenaN tumϊtukϊ
他人から受けたご恩は胸にとめておけ
人の恩は、いつまでも胸の中に秘めておけ。
人ぬ 買い残し 買ゆん 人や 居っか 仕事の 残し 見ゅん 人や 居らん
チュヌ カイノーシ コユン チュヤ ウッカ シグトゥヌ ノコシ ニュンチュヤ ウラン
ʔcjunu kainoːsi kojuN ʔcjuja ‘uqka sigutunu nokosi njuN ʔcjuja ‘uraN
人の買い残した品物を買う人はいても、人のやり残した仕事をみてやる人はいない
品物の売れ残りを買う人はいるが、人のやり残した仕事をやってくれる人はいない。中途半端な仕事をして、ほっておかれては大迷惑である。
他人ぬ きょら傘んくま 親ぬ 破れ傘
チュヌ キョラガ(カ)サンクマ ウヤヌ ヤブルィガサ
ʔcjunu kjoraga(ka)saNʔkuma ʔujanu ‘jaburϊgasa
他人のきれいな傘に入るよりも、自分の親の破れ傘に入るほうがよい
金持ちの他人に頼るよりは、やはり肉親である貧乏な親を頼りにするのが当然のことである。※適訳しにくいことわざであるが、よく使われる。「貧乏でも親はわが親」と訳すべきではなかろうか。「奉公先の大家でかわいがられて、息子のような待遇をうけてくらしても、失意や病気などで庇護をうけたいのは田舎の貧しい両親のもとである。」 「世間の非難を受けている親でも、子どもとしては親の立場に立って世間と戦うのが当然である。」などのたとえとして用いられる。
他人ぬ きょら子んくま 自分ぬ がすたれ子
チュヌ キョラクヮンクマ ドゥヌ グヮサタレクヮ
ʔcjunu kjoraʔkwaNʔkuma dunu gwasaʔtareʔkwa
他人のきれいな顔の子よりも、自分のがらくたみたいな子
よその家の顔かたちのきれいな子より、わが家のがらくたみたいな子のほうがかわいい。「他人ぬ 良い 子くま 自分ぬ 馬鹿子。チュヌ イー クヮクマ ドゥヌ バカクヮ。qqcjunu ‘iHH qqkwaqqkuma dunu bakaqqkwa」ともいう。
他人の きょら子んくま 自分の がすたれ子
チュヌ キョラックヮンクマ ドゥヌ(ドゥーヌ)ガサタレックヮ
ʔcjunu ʔkjoraqkwaNʔkuma dunu(du:nu) gasaatreqʔkwa
他人の綺麗な子より、自分のがらくたみたいな子
解説
人ぬ 口ど 人 食みゅん
チュヌ クチドゥ チュ― カミュン
ʔcjunu ʔkucidu ʔcjuː kamjuN
人の口(ことば)が人を食うのだ
人の口(ことば、そしり)ほどおそろしいものはない。人のそしりが人をおとし入れるのである
人ぬ 口なん 乗らんくま 破れ舟なんじ 乗れ
チュヌ クチナン ノランクマ ヤブルィブヌィ ナンジ ノルィ
ʔcjunu ʔkucinaN noraNjuNma ‘jaburϊbunϊ naNzi norϊ
人の口車に乗るよりは、破れ舟に乗ったほうがよい
人の口先の弁にのせられると、取り返しのつかないことになるものだ。破れ舟に乗るのもまた危険ではあるが、甘言に乗せられるよりはましである。
人ぬ 口や ハブゆんま うとるしむん
チュヌ クチヤ ハブユンマ ウトゥルシムン
ʔcjunu ʔkucija habujuNma ʔuturusimuN
人の口はハブよりもおそろしい
人の口というのは、告げ口をしたり、中傷したり、悪い噂をしたりして、他をおとし入れようとするので、毒蛇のハブよりおそろしい。
人ぬ 事や 言いたがりゅん
チュヌ クトゥヤ イータガリュン
ʔcjunu kutuja ʔiːtagarjuN
だれしも人のことは言いたがるものである
人のことは、いろいろと噂したいものである。他人のことをああだ、こうだとかげで言うのは興味のあることだ。本土の「人をそしるは鴨の味」に類する。
人ぬ 子 丁寧 しらんくま 山ぬ 杖 丁寧 しり
チュヌ クヮ テイヌィン スィランクマ ヤマヌ グシャン テイヌィン スィルィ
ʔcjunu ʔkwa teinϊN sϊraNʔkuma ‘jamanu gusjaN teinϊN sϊrϊ
他人の子に情けをかけて親切に遇するよりは、山行きの杖でも手入れしておけ
他人の子をいくらかわいがっても、自分の老後を見てくれたりはしないのだ。老後にすがる杖でも準備して磨いておくがよい。※子を持たぬ老人に対する忠告のことわざであろうか。
人ぬ 志や 松ぬ 葉に つみ
チュヌ ココロザシヤ マツィヌ ハーニ ツィムィ
ʔcjunu kokorozasija macϊnu haːni cϊmϊ
人のこころざしの品は、松の葉に包めるほどのものでよい
あいさつがわりや日ごろの謝意をあらわす品物は、ほんの少しでよい。「志や 松ぬ 葉し 包め。ココロザシヤ マツィヌ ハシ ツィツィムィ。kokorozasija macEInu hasi cEIcEImEI」ともいう。本土の「こころざしは木の葉に」と同じ。
他人ぬ しまち 家 発ちゅんだれば 七倉 建てたんどろち 嫁入り しり
チュヌ シマチ ヤー タチュンダルィバ ナナクラ タテタンドロチ ユムィイリ スィルィ
ʔcjunu simaci ‘jaː tacjuNdarϊba nanaʔkura tatetaNdoroci ‘jumϊʔirϊ sϊrϊ
よその村へ嫁入りするならば、七つの米倉が建つところへ
よその村へ嫁に行くと苦労はつきもの、せめて七倉のある分限者のところへいけば、食うに事欠くこともなく、みじめなほどの田畑での労働もないであろう。
チュヌ ミチヤ マンミチ
ʔcjunu micija maNmici
和訳
解説
チュヌ ヤッチ ヨーシ イリュンユッカ ロックヮチヒジリン ユカンシャナンティ クィーワリュンヤ マサリ
発音英語
和訳
解説
他人ぬ ヤマんに 打たせ
チュヌ ヤマンニ ウタスィ
ʔcjunu ‘jamaNni ʔutasϊ
他人のワナ(ヤマ[‘jama])にかけさせるがよい
他人の仕掛けた、はじきワナに打たせるがよい。ある人を非難中傷し、糾弾するのに、先頭になってしてはならない。ほかの人にさせるがよい。先頭に立って人を糾弾するものではない。そんなことは、だれかほかの人にさせるがよい。
人ぬこと 言ゆんや 人んじ やっとんち 思へ
チュヌクトゥ イュンヤ チュンジ ヤットゥンチ オモウィ
ʔcjunukutu ʔjuNja ʔcjuNzi ‘jaqtoNci ʔomowϊ
和訳
解説
人ぬ家 行けば ひき所 見し うん 家ぬ しなぬ わかりゅん
チュヌヤチ イクィバ ヒキジョ ニシ ウン ヤヌ シナヌ ワカリュン
ʔcjunu jaci ʔikϊba hikizjo nisi,ʔuN ‘janu sinanu ‘wakarjuN
人の家を訪ねたら、その家の奥の間を見て、その家の様子を知ることができる
奥にある部屋の整頓のしかたを見れば、その家の日ごろの生活態度がわかる。ヒキジョ[hiqqkizjo](ひき所)とは表座敷と仕切られている部屋をいう。
人ば 捕りゅん 亀や 人んじ 捕らりゅり
チュバ トゥリュン カムィヤ チュンジ トゥラリュリ
ʔcjuba turjuN kamϊja ʔcjuNzi turarjuN
人を捕る亀は、人に捕られる
原意不明だが、よく使われることわざ。人をおとしいれようとはかって、かえって自分がわざわいを受けるたとえ。※鱶(ふか)なら具体的に説明もつくが、亀では不明。奄美の古老たちも、「チューヌニューチ ソコネン カムィqqcjuHHnuqqnjuHHci sokoneN kamEI (人の命を損なう亀)」は知らないという。積吉元氏によると、小舟の舷に大海亀が頭をもたげて何回もおどすことがあるという。亀とり名人なら、その甲羅にとりついて腹這になって抱き、動かなくなったときに縄をうって捕える。本土の「人捕る亀が人に捕られる(末摘花)」と同じ。
人腹や 満ちらりゅんばん 舟腹や 満ちららん
チュバラヤ ミチラリュンバン フナバラヤ ミチララン
ʔcjubaraja micirarjuNbaN hunabaraja miciraraN
人の腹は、胃袋にすきまなく詰め込んで満腹することができるが、舟の腹(船内)はすきまなく荷物を詰め込んで満載することはできない
舟の積荷には限度があるのだ。その限度をこえると航行に危険である
人や 痩倒れ、牛や 肥倒れ
チュヤ エードーレ、ウシヤ クェードーレ
ʔcjuja ‘jeːdoːre,ʔusija ʔkёːdoːre
人は痩せ細って死んでいく。牛はその反対に肥えふとって死んでいく(屠殺される)。
チュヤ クチニン ウワッティドゥ ハタラキュリ
ʔcjuja kuciniN ʔuwaqtidu hatarakjuri
和訳
解説
人や 鍋釜 見しど 来ゅーり 飛び鳥や 見しゃんてん 来ん
チュヤ ナブェカマ ニシドゥ キューリ トゥビドゥリヤ ニシャンテン クン
ʔcjuja nabёkama nisidu kjuːri.tubidurija nisjaNteN kuN
人はその家の鍋釜(食生活、経済状態)を見て、食にありつけそうなところへ集まってくる。空を飛ぶ鳥は、そんな家を見てもよりついて来ない。
人間社会は、経済的に力のある家にみんながより集まっていく仕組みになっているのに、自然界の鳥たちはそんなことにはまるで無関心である。
人や 盗人ち 思ゐ 夜や 雨ち 思ゐ
チュヤ ヌスィドチ オモウィ ユルヤ アムィチ オモウィ
ʔcjuja nusϊdoci ʔomowϊ ’juruja ʔamϊci ʔomoϊ
人を見たら盗人と思え 夜は雨になると思え
ものごとを楽観してばかりはいられない。なにか不都合がおこるものと前もって警戒しておく必要がある。
チュユルヌ ムェンセヤ ナンカ ツヅキュリ
発音英語
和訳
解説
人ん先と 物作りぬ 先や わからん
チュン サキトゥ ムンツィクリヌ サキヤ ワカラン
ʔcjuN saʔkitu muNcϊʔkurinu saʔkija ‘wakaraN
人の将来と農作物のでき、ふできの予測はできない
人のあすの運命はだれにもわからない。また、作物の収穫の予想もなかなか立てにくい。
他郷交じりや 馬乗り 牛乗り
チュン シママジリヤ マーノリ ウシノリ
ʔcjuN sima-mazirija ʔmaːnori ʔusinori
よその村に住んで、そこの人々と交際していくのは、大変苦労するもので、馬の背にまたがったり、牛の背にまたがっているような不安定で、あぶない毎日の暮らしとなるのだ。
よその村に住んで、そこの人々と交際していくのは、大変苦労するもので、馬の背にまたがったり、牛の背にまたがっているような不安定で、あぶない毎日の暮らしとなるのだ。
人んじ 物 呉れん 時や あたらしゃん うちなんてぃ くれゔぇ?
チュンジ ムン クレントゥキヤ アタラシャン ウチナンティ クレヴェ?
ʔcjuNzi muN kureNtuʔkija ʔatarasjaNʔucinaNti kure?
和訳
解説
人んに 雇われんだれば 九十月頃 雇われ
チュンニ ヤトワレンダルィバ クジュグヮツィゴロ ヤトワルィ
ʔcjuNni ‘jatowareNdarϊba kuzjugwacϊgoro ‘jatowarϊ
人に雇われるのであれば、旧暦九、十月の頃に雇われよ
日が短い頃だから、労働時間も短くてすむのだ
長者ぬ 真似や すんな 飛び鳥ぬ 真似や しり
チョージャヌ マネヤ スンナ トゥビドゥリヌ マネヤ スィルィ
ʔcjoːzjanu maneja suNna tubidurinu maneja sϊrϊ
長者の真似はするな。飛び鳥の真似はしろ
解説
長男や 本柱
チョーナンヤ フンバシタ
ʔcjoːnaNja huNbasiʔta
長男は大黒柱である
長男こそは、その家の屋台骨である
チョーホーヤ ミチバタナンティ スィリ
ʔcjo:ho:ja micibatanaNti sϊrϊ
和訳
解説
ちんぱや ひっちん 腰や 引くな
チンパヤ ヒッチン クシヤ ヒクナ
ciNpaja hiqciN kusija hiʔkuna
ちんばはひいても、腰はひくな
たとえ、ちんばはひいても、相手に対しおそれを抱いてはならぬ。※気おくれして、自分の腰をひっこめてはいけないの意。