石崎公曹の奄美のことわざ

「た」から始まる言葉

田 八月、 畑 三月

ター ハチグヮツィ、 ハテ サングヮツィ

ta: hacϊgwacϊ, hate saNgwacϊ

借地返還の不文律

田を借りた者は一期作の取り入れ後の八月に、田を鋤き直して返す。畑を借りた者は、三月の甘蔗刈り入れ後に、甘蔗の株を焼いて畑をととのえて返す。


高木ぬ 下なん 小木や 育たん

ターグィヌ シャーナン クヮーグィヤ スダタン

ta:gϊnu sja:naN ʔkwa:gϊja sudataN

高い木の下では、若木は育たない

高く伸びて繁茂している木の下には、若木は伸びて育つことができない。やり手の実力者がいるところでは、新進の者が頭を出すことができないことのたとえ。


高さりばど 落てりゅん

ターサルィバドゥ ウティリュン

ta:sarϊbadu ʔutϊrjuN

高いからこそ、落ちるのである

高ぶっているからこそ、ひきずり落とされるのだ。お高くとまっているから、世間からひきおろされるのである。前出 0415、0416に類する。「高むちゃがり しゅっと 糞 踏みゅん。タームチャガリ シュットゥ クスクミュン。taHHmuqqcjagari sjuqqqtu qqkusu qqkumjuN(気位高く、いばっていると後でひどい目にあう)」ともいう。


高さん 木ど 風に 折れる

ターサン クィドゥ カゼニ(カゼンジ) ウルィル(ウルィン)

ta:saN kϊdu kazeni(kazeNzi)’urϊru(’urϊN)

高い木だからこそ、風に吹き折れるのだ

気位を高く持っていばっているから、世間の非難にも合うのだとえ。


ターハナ ムチャガリ シュットゥドゥ(シュトゥヤ)  クスクミュン

ta:hana muqcjagari (sjuqtuja)sjuqtudu ʔkusuʔkumjuN

和訳

解説


田や 沖向かい、 畑や 東向かい

ターヤ ウキムカイ、 ハテヤ クチムカイ

ta:ja ʔuʔki-mukai, hateja kuci-mukai

田は沖に面しているのがよい 畑は東に面しているのがよい

田は海の沖が見えるところが陽当たりがよく、美田といわれる。畑は東向きが朝日をうけやすく、作物がよく成長するといわれている。


田や 田袋、 人や 人ん 中

ターヤ タボコロ、 チューヤ チュン ナハ

ta:ja taboʔkoro, ʔcju:ja ʔcjuN naha

田は田袋(広い水田地帯)の中の田が美田であり、人はたくさんの社会人の中でもまれた人が立派である。

田を選ぶとすれば、大きな水田地帯の中ほどの田がよい。人を選ぶとすれば、多人数の中に立ち交って、もまれにもまれた人がよい。


田や 真ん中、 畑 縁

ターヤ マンナハ、 ハテ ブチ

ta:ja maNnaha, hate buci

田は田袋(水田地帯)の真ん中にあるのがよい

畑は広い畑地のはずれにあるのがよい。いずれも管理しやすく、収穫もよい。


田や 水かけりゅんま(水けんくま) 心がけ

ターヤ ムィズィカケリュンマ(ムィズィクェンクマ) ココロガケ(コロゲ)

ta:ja mϊzϊkakerjuNma(mϊzϊkϝёNkuma) kokorogake(koroge)

田は水かけよりも心がけ

稲の成育は水ひきよりも、毎日行ってなにかと世話を見ることだ。いつも心をかけて見てやることが必要である。


二人者や 働きゅん

ターリムンヤ ハタラキュン

ʔta:rimuNja hatarakjuN

ふたり者(夫婦ふたり)は、よく働く

子どももいない夫婦ふたりは、じつによく働くものである。若夫婦は、ふたりそろって一体となって、一生けんめい働くのが常である。


代 取らんゆっか 名 取れ

ダイ トゥランユッカ ナ トゥルィ

dai turaNjuqʔka na turϊ

利益を得るよりは、名誉を得よ


堆肥(肥し) ちゅー担め アサゴロ ちゅー担め

タイヒ(コヤシ) チューカタムィ アサゴロ チューカタムィ

taʔihi(kojasi) ʔcju:katamϊ ʔasagoro ʔcju:katamϊ

肥料の入れ方としては、堆肥をひと担ぎ分に対して、アサゴロ[qqasagoro](フカノキ)の葉の緑肥をひと担ぎ分入れるとよい


宝手 あそばすな

タカラディ アスィバスナ

takaradϊ ʔasϊbasuna

宝の手を遊ばせるな

宝の手をむだに遊ばせるな。生産のために使うべき貴重な両の手を、なにもせずにむだに使わないでおくというのは、もったいないことではないか。仕事はいくらでもある。すぐに両手を使うがよい。0287「黄金手 遊ばすな」と同じ。


他島縁 結ばんゆっか 同郷ぬ 芭蕉山

タシマイン ムスィビュンユッカ チュシマヌ バシャヤマ

tasimaʔiN musϊbjuNjuqʔka ʔcjusimanu basja’jama

遠いよその村との縁組をするよりは、同郷の芭蕉山(醜女)との縁結びをしたほうがましだ


他島縁 結べば 落とさん 涙 落としゅん

タシマイングミ スィルィバ  ウトゥサン ナダ ウトシュン

tasimaʔiNgumi sϊrϊba ʔutusaN nada ʔutusjuN

遠い村との縁を結ぶと、落とさない涙を落とす

遠いよその村へ嫁入りすると、周囲の人々の気心もわからず、またいささか風習もことなるので、心労のはて、故郷の当地にあっては落とさなくてもよい涙を落として、ひとりで泣くことにもなろう。


他島縁組や 行きばん客 来ばん客

タシマイングミヤ イキバン キャク クーバン キャク

tasimaʔiNgumija ʔikibaN kjaʔku ku:baN kjaʔku

遠い村と縁を結べば、行っても客。来ても客

遠い村と縁組みをすると、こちらがむこうへ行ってもお客として迎えられ、むこうがこちらへ来てもお客遠い村との縁組みをすると、こちらがむこうへ行ってもお客として迎えられ、むこうがこちらへ来てもお客として迎えなければならないので、親類づきあいも出費が多く、大変なことになってしまう。


他島縁組や すんな 家主帯ぬ 立たん

タシマイングミヤ スィンナ ヤーショテヌ タタン

tasimaʔiNgumija sϊNna ‘ja:sjotenu tataN

遠い村との縁組をすると、姻戚同士の交際にお金はかかるし、時間はつぶすし、あとは家計のやりくりもつかなくなってしまうものだ

解説


他島ぬ 美女ゆっか 吾島ぬ 木ん株ど まさり

タシマヌ キョラムンユッカ ワシマヌ クィンガブドゥ マサリ

tasimanu kjoramuNjuqʔka ‘wasimanu kϊNgabudu masari

よその村の美人を嫁にもらうより、わが村の木の節みたいな不美人を嫁にしたほうがましである


他島ぬ 積み倉ゆり(積み倉ゆっか/積み倉んくま) 吾島ぬ あまだ倉や まさり

タシマヌ ツィミグラユリ(ツィミグラユッカ/ツィミグランクマ) ワシマヌ アマダグラヤ マサリ

tasimanu cϊmiʔgurajuri(cϊmigurajuqʔka/cϊmiguraNkuma) ‘wasimanu ʔamadaguraja masari

よその村の高倉よりも、わが村のアマダ[ʔamada](炉の上の棚)の方がまだましである

高倉のある、よその村の金持ちの家へ嫁ぐよりは、わが村の炉上の棚しか持たぬ貧しい家へ嫁いだ方がましである。


他島ぬ 大家ゆっか 吾島ぬ 小屋

タシマヌ フーヤユッカ ワシマヌ クヤ

tasimanu hu:jajuqʔka ‘wasimanu kuja

よその村の大家よりも、わが村の小さな家に嫁入りしたほうがましである


田島ぬ 役人ゆっか(役人くま) 吾島ぬ 貧乏

タシマヌ ヤクニン ユッカ(ヤクニン クマ) ワシマヌ ビンボ

tasimanu jaʔkuniNjuqka(jaʔkuniNkuma) wasimanu biNbo

和訳

解説


他島ぬ縁組や 結ぶな 糯米ぬ 種ど 絶りゅる 

タシマヌイングミヤ ムスィブナ ムチグムィヌ タネドゥ キリュル

tasimanuʔiNgumija musϊbuna mucigumϊnu tanedu ʔkirjuru

遠い村と縁を結べば、糯米の種を切る

遠いよその村との縁組みをすると、姻戚づきあいで相手方が来るたびに、やれ餅だ、やれ団子だ、やれ菓子だと接待しなければならず、手持ちの糯米の大事な種籾さえきれてしまうことになるのだ。


立ちゅんや 親でん 使うい

タチュンヤ ウヤデン ツィカウィ

taʔcjuNja ʔujadeN cϊʔkawi

立っているなら、親でも使え

すわっている人、急ぐ用のある人は、近くに立っている者ならだれでもかまわず使うがよい。本土の「立って居る者は親でも使え」「居仏が立仏を使う」と同じ。


双児や 一人ど 命や あん

タックヮヤ チューリドゥ イヌチヤ アン

ʔtaqʔkwaja ʔcju:ridu ʔinucija ʔaN

ふた子は、ひとりの命がある

この句、つぎのいずれか不明。①双生児は、生まれ出ても、ひとりの命しか与えられない。(扼殺して墓に埋めたこともあったという。双子を生む産婦は恥とされた。当彦千代氏)②双生児は、ふたりで同じ運命をもつ。(顔や身体も似ていて、心も同じ。ひとりが病気になると、他も同じ病気になり、死ぬのもいっしょになる。積吉元氏)


立てば 踊り

タティバ ウドゥリ

tatϊba ‘uduri

立ちさえすれば、もう踊りなのだ

踊りはむずかしいものではない。立ち姿がすでに踊りなのだ。※踊りが下手であるとしりごみする人に「~ チ イュカナ -ci ʔjukana.(立てばそれが踊り)というではないか。」といって元気づける。踊りは簡単なもので立てばよいのだ。苦にするほどのことではない。


田ぬ草 七回 すれば 肥料や 要らん

タヌクサ ナナクェーリ スィルィバ クェーヤ イラン

tanuʔkusa nanakёːri sϊrϊba ʔkwё:ja ʔiraN

田の草取りを七回もすれば、肥料は入れなくてもよい。

田の草取りは、成長する稲にはひじょうに効果があり、七回もやれば稲は肥料なしですくすく伸びるものである。


煙草刻みがでが 親ぬ 孝行

タバクキザミガルィガ ウヤヌ コーコ

tabaʔku-ʔkizamigarϊga ʔujanu ko:ko

父のためにたばこをきざんでやる年頃までが親孝行。

たばこの葉を刻むのは14、5歳の少年たちのお手伝いのひとつであった。もちろん、専売以前のことである。「お父さんのために」と純真な気持ちで刻んでくれた少年も、16、7 歳の青年ともなり、おとなへと成長するにつれ、ことごとに親とも反発し合うようになる。「あいつがタバコを刻んでいたころが、いちばん親孝行の素直な子だったなあ。」と親は嘆くのである。


煙草や 縁付き煙草

タバクヤ ヰンツィキタバク

tabaʔkuja ‘iNcϊʔki-tabaʔku

煙草は男女の縁を近づける

煙草は男女を親しくさせるきっかけの道具。※古く「煙草流れ」の歌謡もあって、煙管を交互に吹かし合ったり、恋人への贈り物にしたりしたことが歌われている。


田畑ぬ 畦 くやすな

タハタヌ アブシ クヤスナ(クェースナ)

tahatanu ʔabusi kujasuna(kёːsuna)

田や畑の畦(あぜ)を崩すな

境界破壊はするなの意。田や畑の境界となる畦は、上のほう(山手のほう、土地の高いほう)の持主のものとされる不文律がある。下のほうの土地の持主に、このことわざが「してはならないこと」としていましめている。


鷹ぬ 舞うれば ガラスがりん 舞うりゅん

タハヌ モールィバ ガラスガルィン モーリュン

tahanu mo:rϊba garasϊgarϊN mo:rjuN

鷹が舞うとカラスもそれを真似て舞う

わけはわからず、ただ大物について付和雷同しているもののたとえ。


旅 しらんよりも 三筋髪ぬ 物 作れ

タビ スィランユリモ ミスィズィガンヌ ムン ツィクルィ

tabi sϊraNjurimo misϊzϊgaNnu muN cϊkurϊ

旅をするよりは、わずか三本ぐらいの穀物でも作ったほうがよい

スィランユッカ[sEIraNjuqqqka]は、スィロユッカ[sEIro’juqqqka](しようよりは)ともいう。


旅 出じや 家ぬ 壁 忘れんな

タビ イジヤ ヤーヌ クブ ワスィルィンナ

tabi ʔizija ‘jaːnu kubu ‘wasϊrϊNna

旅に出たら、旅先でも家のかや壁を忘れるな

楽しさや珍しさに有頂天にならず、わが家のかや壁のことを念頭において財布をひきしめておけ。


タビイキヌ スィッタクブリ

tabiʔiʔkinu sϊqtakϊziri

和訳

解説


旅立ち よりより、 支度や 七日

タビダチ ヨリヨリ、 シタクヤ ナンカ

tabidaci ‘jori’jori, siʔtaʔkuja naNka

旅行への出発は、ゆっくりとするもの、旅行の支度は七日ががりで、手抜かりのないようにしておけ


旅ぬ 人 とりむちや 夫 とりむち

タビヌ チュ トゥリムチヤ ウトゥ トゥリムチ

tabinu ʔcju turimucija ‘utu turimuci

旅人を歓待してやることが、ひいてはわが夫を歓待していることになるのだ

自分の夫がよその村や島へ旅することになれば、むこうでも自分が旅人を歓待してやったように、わが夫も歓待を受けるであろうから。


旅や 十日ち 思ふば 二十日

タビヤ トーカチ(トゥーカチ) オモウィバ ハツィカ

tabija to:kaci(tuːkaci) ʔomowϊba hacϊʔka

旅は十日の予定でも、つい二十日になってしまう

歌謡では「トーカ トムェバto:ka tomёba(十日と思えば)」と歌う。十日間の旅だと思ってでかけても、二十日もかかってしまうものである。


卵にしゃん 子 産しば 羽ぬ 生て 飛で 行きゅり

タマゴニシャン クヮー ナスィバ ハネヌ ムェーティ トゥディ イキュリ

tamagonisjaN ʔkwa: nasϊba hanenu mёːtϊ tudϊ ʔikjuri

卵のむきみのような色の白い、かわいい子を生めば、その子は成長したあかつき羽が生えてどこかへ飛んでいく

美男美女の子は、故郷の親許には残らず広い世間へ飛んでいく。


たまし利きぬ 一人んくま 馬鹿ぬ 十人

タマシキキヌ チューリンクマ バカヌ ジューニン

tamasiʔkikinu ʔcju:riNʔkuma bakanu zjuːniN

利口者のひとりがいるよりは、馬鹿の十人がいたほうがよい

馬鹿の三人でも、寄り合って相談すれば、利口者以上の知恵才覚が生まれるものである。


たましや 臍ぬ 下なん 持て

タマシヤ フスヌ シャーナン ムチンムン

tamasija husunu sja:naN muciNmuN

知恵才覚は臍(へそ)の下におさえておけ

才子ぶって知恵があることを口先でぺらぺらとしゃべってみても、それは小利口というもの。本当の知恵は、臍の下あたりにおさえて持っておくべきものである。


玉菜と 油とや 親子

タマナトゥ アブラトゥヤ ウヤクヮ

tamanatu ʔaburatuja ʔujaʔkwa

キャベツ料理には油はつきもの

キャベツは油いためがいちばんよい。


田や すねふり者ぬ あと、 畑や きばり手ぬ あと

タヤ スィヌィフリムンヌ アト、 ハテヤ キバリテヌ アト

taja  sϊnϊhurimuNnu ʔato, hateja ʔkibaritenu ʔato

田畑を求めるとすれば、田はずぼら者の使ったあとの田を、畑はがんばり屋の使ったあとの畑を求めるがよい

ずぼら者は計画的でなく、田をほったらかしにしているから、休田も同じで、その田はよく肥えている。がんばり屋の畑は、くまなく雑草が抜かれていて、整然として管理しやすい。田は放置されると地味が肥えるが、畑は放置されると雑草がはこびり、荒地となる。


短気や 損気、 小慾ぬ 大損

タンキヤ スンキ、 クユクヌ フーズン

taNʔkija suNʔki, kujuʔkunu hu:zuN

短気は熟慮を欠くので、損を招きやすい

現口語では ソンキ[soNʔki] 、フーゾン[hu:zoN]という。小さな慾は、目先だけの利益にとらわれて結局は大損をしてしまう。
本土の「短気は損気」「一文惜しみの百失い」と同じ。


頼み人や 鶏ぬ 入らんだけ

タンミッチュ(タンビッチュ)ヤ トゥリヌ イランダケ

taNmiqʔcju(taNbiqʔcju)ja turinu ʔiraNdakje

雇われ人は、ただ畑に鶏が入らないだけの仕事しかしない

雇われ人は、仕事に当事者ほどの責任はなく、いつ日が暮れて義務が終わるかということだけを考えているから、せいぜい畑の鶏を追うぐらいの仕事しかしない。

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