石崎公曹の奄美のことわざ

「す」から始まる言葉

姿や 食まらん

スィガタヤ カマラン

sϊgata’ja kamaraN

容姿のよさだけでは、食ってはいけない

前出「影姿しや 食まらん」「美人や 食まらん」と同じ。


急がば よりより

スィカバ ヨリヨリ

sϊʔkaba ‘jori’jori

急ぐならば、かえってゆっくり

気がせくときは、むしろゆっくりと落ち着いてやれ。「急かば 回れ。スィカバ マワルィ。sEIqqkaba mawarEI 」ともいう。本土の「急がば回れ」「せいては事を仕損じる」に類する。


スィカマヌ ティンゴロヤ アムィチ オモウィ

sϊʔkamanu tiNgoroja ʔamϊci ʔomoϊ

和訳

解説


朝ぬ 起りや うん日ぬ おこり

スィカマヌ フィーリヤ ウンヒヌ オコリ

sϊkamanu hwϊːrija ʔuNhinu ʔokori

朝の起床がその日のはじまり

朝の起床の時間、気分、心構えが、その日一日の行動のはじまりともなるのだ。朝の起床時にだらしがないと、その日一日もだらしないものとなってしまう。


好きな 人が 愛しゃ

スィキナ チュガ カナシャ

sϊkina ʔcjuga kanasja

好きな人であるからこそ、いとしく思う

好きだからこそ思慕する。容姿のよしあしはともかく、好きになるから、いとおしくなる。


杉や 海 見ようちど ほでりゅん

スィギヤ ウミ ニョーチドゥ ホデリュン

sϊgija ʔumi njo:cidu hoderjuN

杉は海を見よう、海を見ようと伸びていくのである

杉林は、海辺の山には育たない。深山の谷間の傾斜がよい。どの杉も海が見たい、海が見たいとすくすくと育つのである。


スクフヤ 継子ば 仕事ら 帰しちど 啼きゅる

スィクフヤ ママックヮバ シグトゥラ カエスィチドゥ ナキュル

sϊʔkuhuja mamaqʔkwaba sigutura kajesϊcidu nakjuru

フクロウは、継子を野良仕事から帰してやれと啼いているのだ

継子に日が暮れたあとまで野良仕事をさせるのはかわいそうである。帰してやれ、帰してやれとフクロウは啼いているのである。


年上妻 持てば しゅかガユ

スィザトゥジ ムティバ シュカガイ

sϊzatuzi mutϊba sjukagai

年上の女房をもつと、他の家人にわからぬようシュカ(土器製のやかん)に炊いたおかゆを、そっと夫に食べさせてくれる。

姉さん女房は亭主をわが子のようにいとおしむことのたとえ。本土の「姉女房は子ほど可愛がる」に類する。


筋 打ち抜がったんにし なりゅん

スィズィ ウチヌガッタンニシ ナリュン

sϊzϊ ʔucinugaqʔtaNnisi narjuN

筋肉のすじを打ちぬかれたようになる

腱を打ち切られたように、まったく力が抜けてしまうことのたとえ。


捨てん 神ぬ あるぃば 引きゃげん 神ぬ あん

スィティン カミヌ アルィバ ヒキャグェン カミヌ アン

sϊʔtϊN kaminu ʔarϊba hiʔkjagёN kaminu ʔaN

自分をみかぎって捨ててしまう神もあれば、一方、助力してひきあげてくれる神もいる

世の中は広いから、相手にもしてくれない人もいるし、助けてくれる人もいる。本土の「棄つる神あれば 引上ぐる神あり」と同じ。


スィトゥトゥ ユムィトゥヤ デーヌ キリグチ

sϊʔtutu ‘jumϊtuja deːnu ʔkiriguci

和訳

解説


姑と 嫁とや 舟と 礁

スィトゥトゥ ユムィトゥヤ フヌィトゥ スィ

sϊʔtutu ‘jumϊtuja hunϊtu sϊ

姑と嫁とは、舟と暗礁のような仇同士の関係である

姑と嫁とは敵対関係になりやすい


姑ふらゐや 床下なんて 木ん株 割りゅん 気持ちし しり

スィトゥフライヤ ユカンシャナンティ クィンガブ ワリュン キモチシ スィルィ

sϊʔtuhuraija ‘jukaNsjanaNtϊ kϊNgabu ‘warjuN ʔkimocisi sϊrϊ

姑と仲良く調子を合わせるのは、床下にはいりこんで木の株を斧で割るような気持ちでやれ

姑とうまを合わせるには、窮屈に耐え、辛抱強い心掛けでなければ成功しない。


すねふりぬ 家なんじや 三味線ぬ さがりゅり

スィヌィフリヌ ヤーナンジヤ サンセンヌ サガリュリ

sϊnϊhurinu ‘ja:naNzija saNseNnu sagarjuri

怠け者の家には、遊ぶための三味線が壁にかかっている

怠け者は遊び好きだから、かれの家にはきまって三味線を置いてある。


スィヌィフリムン(スィヌィドレムン)ヌ イシゴーシャ

sϊnϊhurimuN(sϊnϊdoremuN)nu ʔisigo:sja

和訳

怠け者は畑では働かないで山芋を掘るのには一生懸命出かけていくんだ。スィヌィフリムンは山芋をとるときはなんだか妙に生き生きして一生懸命にやるんだ。古風な言い方で[sϊnϊdoremuNnu]ということもある。


すねふり者ぬ 重荷物

スィヌィフリムンヌ ウブニモツィ

sϊnϊhurimuNnu ʔubunimocϊ

和訳

怠け者は、運搬にあたっても、一度で全部すまそうとして重い荷物を無理して運ぼうとする。本土の「なまくらの大荷物」と同じ。


すねふり者ぬ 節句働き

スィヌィフリムンヌ スィックバタラキ

sϊnϊhurimuNnu sϊqʔku-bataraʔki

日ごろ働かない怠け者は、みんなが休む節句の日に、ひとりだけ働いたりする

村人全部がいっしょに楽しむ節句に、ひとり働いている者を嘲笑していう。
本土の「怠け者の節句働き」と同じ。


すねふり者ぬ 一花仕事

スィヌィフリムンヌ チューハナシグトゥ

sϊnϊhurimuNnu ʔcjuːhanasigutu

怠け者は、やる時は華々しく一生懸命にやって、それで仕事はおしまい

一時にぱっとやって、あとは継続しない。本土の「無精者の一時働き」に類する。


すねふり者ぬ 鼠算用

スィヌィフリムンヌ ヌィズィンサンニョ

sϊnϊhurimuNnu nϊzϊNsaNjo

無精者は働くことはしないで、得をしようとの計算ばかりしている

しかも、その計はネズミ算である。本土の「取らぬ狸の皮算用」に類する。


しねふり者ぬ 三日働き

スィヌィフリムンヌ ミキャバタラキ

sϊnϊhurimuNnu miʔkjabataraʔki

怠け者の三日働き

ずぼら者は仕事についても三日しか働かない。


相撲取りゃや 取て あがりゅり、 馬牛や 使て あがりゅん

スィモトゥリャヤ トゥティ アガリュリ、 マーウシヤ ツィカティ アガリュン

sϊmoturjaja tutϊ ʔagagarjuri, ʔma:ʔusija cϊʔkatϊ ʔagarjuN

相撲とりは、相撲をとるだけとって、力が衰えたら引退する

牛馬は使えるだけ使って、力が衰えて使いものにならなくなると廃される。相撲とりも力のあるうち、牛馬も力のあるうちで、力が衰えるとお役御免となるのだ。


摺臼 持ちや 富源、 挽臼 持ちや 貧乏なりゅん

スィルスィ ムチヤ ブギン、 ヒキュスィルスィ ムチヤ ビンボ ナリュン

sϊrusϊ mucija bugiN, hiʔkjusϊrusϊ mucija biNbo narjuN

米すり臼を持っているのは金持ちとなり、ひき臼を持っているのは貧乏となる

摺臼は米の生産活動の一翼を担っているが、挽臼は行楽の菓子作りのための粉ひきに用いられるからであろう。米の生産に役立つ摺臼をよく使う家は富み、遊楽のための粉ひきに挽臼をよく使う家は貧しくなっていくの意であろう。


為ろち 思て 為ららん むんや 無ん

スィロチ オモティ スィララン ムンヤ ネン

sϊroci ʔomotϊ sϊraraN muNja neN

しようと思って、できないものはない

なそうとしてなせないものはない。なにごとも、なそうとの決意次第である。本土の「為せば成る」と同じ。


虚者ぬ 猫 眼玉

スィロムンヌ マヤ ムィンタマ

sϊromuNnu maja mϊNtama

奸計者は猫の目をしている

悪だくみを考えている者は、いつも猫の目のようにキョロキョロしている。


虚言や 先ちや 通らん

スィロユムタヤ サキチヤ トゥーラン

sϊro’jumutaja saʔkicija tu:raN

嘘いつわりは、世間では通用しない

うそはすぐに見破られて、世間ではだれも信用しない。「嘘口や 一寸先ちも 通らん。スィログチヤ イッスンサキチモ トゥーラン。sϊrogucija ʔiqsuNsaʔkicimo tu:raN.」とも、「嘘言や戸口ら先ちや通らん。スィロユムタヤ ヤドグチラ サキチヤ トゥーラン。sϊro’jumutaja ‘jadogucira saʔkicija tu:raN.」ともいう。


師走 甘藷

スィワスィ カンザ

sϊwasϊ kaNza

師走に植える甘藷

根づくことは根づくが、たとえ翌年の収穫期が来ても収量がほとんどない。師走植えの甘藷は労多くして収穫が乏しい。※カンザ[kaNza]とは、奄美大島南部方言系のひとつで「甘藷」である。北部ではトン[toN](唐うむ)系である。カンザ[kaNza]は、南朝鮮および済州島のkamdʒa系に比べるのもおもしろい。


酒ぬ 酌や しも 茶ぬ 酌や しんな

スェーヌ シャクヤ シモ チャーヌ シャクヤ スィンナ

sёːnu sjaʔkuja simo cjanu sjaʔkuja sϊNna

お酒のお酌はしてよいが、お茶のお酌はするものではない

お酒は注ぎ足しても味も匂いもかわらず、お酌のしかたの手ぎわにもよって喜ばれよう。しかし、お茶は注ぎ足してすすめるものではなく、淹れなおすものである。


酒も 煙草も 飲まんたんてん 倉や 建てきらん

スェーモ タバクモ ヌマンタンテン クラヤ タティキラン

sё:mo tabaʔkumo numaNtaNteN ʔkuraja tatiʔkiraN

酒もタバコも飲まずにいても、倉は建てられないではないか

酒タバコをやめたとて倉が建つわけではなかろう。酒もタバコも好き好きでやっていることだから、とやかく言わなくてもよかろう。やめて倉が建つわけではあるまい。


伸しゅん 手なんど 物や 置すかりゅん?

スシュン ティーナンドゥ ムンヤ ウスカリュン

susjuN tiːnaNdu muNuja ʔusukarjuN

さし伸べてくる手にこそ、与える物は置かれる

「頂戴、頂戴」と手をさし伸べてくる者に、物は与えられるのである。遠慮して引っ込めている手には、与えられない。


蘇鉄なん 古釘

スティツィナン フルクギ

sutϊcϊnaN huruʔkugi

蘇鉄には古釘がよい

蘇鉄は鉄分を好むから、根に古釘をばらまいておけば、枯れることなく立派に育つ。


蘇鉄ぬ 実りば 妻と子や 喜び(み)ゅん

スティツィヌ ナルィバ トゥジトゥ クヮーヤ ユルクビュン(ユルクミュン)

sutϊcϊnu narϊba tuziʔtu kwa:ja ‘jurukubjuN(’jurukumjuN)

蘇鉄の実がなると、女房子どもは大喜びである

女房は味噌作りの原料となることを喜び、子どもたちは赤い実でおもちゃを作るのを喜ぶのである。なりよりも家族そろっての ナリワリ[nariwari](赤い実を割る作業)を喜ぶのだ。ユルクミュン[‘jurukumjun] (喜ぶ)はユルビュン [‘jurukubjuN]ということもある。


蘇鉄ぬ 花ぬ あがりば 長雨や あがり

スティツィヌ ハナヌ アガルィバ ナガシヤ アガリ

sutϊcϊnu hananu ʔagarϊba nagasija ʔagari

蘇鉄の雄花のしぼむ頃が、梅雨のあがり時

蘇鉄の雄花(砲弾型の花)がしおれて倒れ、その役目を果たすころ、梅雨もあがるのである。


蘇鉄や 石 抱かし

スティツィヤ イシ ダカスィ

sutϊcϊja ʔisi dakasϊ

蘇鉄は石を抱かせよ

蘇鉄は根に石を抱いてけっこう成長するものである。むしろ、そのほうが成長させるにはよい。※野性の蘇鉄は、海近い段階状の石まじりの山に群生しているのがよく見うけられる。


蘇鉄や 塩鉄

スティツィヤ シュティツィ

sutϊcϊja sjutϊcϊ

蘇鉄は塩鉄である

蘇鉄は、海近くの段丘で潮をかぶっても平気で育つものである。潮に強いのが蘇鉄である。塩鉄(しゅてつ)と呼んでもよい植物だ。


スディヌ ハマヌ ミリャランヒヤ フネイジャシヤ スィンナ

sudinu hamanu mirjaraNhija huneʔizjasija sϊNna

和訳

解説


スティヌ ハランシャヤ ウヤヌ ダキクヮ

発音英語

和訳

解説


ストゥ アッキュンチュヌ ハナシスィリバ ハギツィム クリュリ

sutuaqkjuNcjunu hanasisϊrϊba hagitϊmu kurjurϊ

和訳

解説


ストゥ イキャリヤ ヤーナキ ギリャ

sutuʔiʔkjarija ja:naʔkigirja

和訳

解説


ストゥヒャーリ ウチフクリ

sutuhja:rϊ ʔucihukurϊ

和訳

解説


姑や うに千匹?

ストゥヤ ウニセンビキ

発音英語

和訳

解説


スラブユムンヌ ワタグル

surabujumuNnu wataguru

和訳

解説

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