石崎公曹の奄美のことわざ
「し」から始まる言葉
先生と 乞食や やめららん
シェンシェイトゥ クジキヤ ヤムェララン
sjeNsjeitu kuziʔkija ‘jamёraraN
先生と乞食とは、やって見れば楽で、一度この仕事についたら、やめられるものではない
両者とも非難されることもなく、尊敬と憐憫のちがいはあっても、贈り物とほどこしを受ける点では似ている。ヤムェララン[‘jamёraraN]は、ヤムィララン[‘jamϊraraN]ともいうことがある。
先生と 船乗りや 三日すれば やめららん
シェンシェイトゥ フナノリヤ ミキャスィルィバ ヤムェララン
sjeNsjeitu hunanorija miʔkjasϊrϊba ‘jamёraraN
先生と船乗りとは、三日すればやめられるものではない。
千人ぬ 口 塞ぎゅんくま 自分ぬ 一口 言うな
シェンニンヌ クチ クサギュンクマ(クサガユッカ) ドゥーヌ(ドゥン) チュクチ イューナ
sjeNniNnu ʔkuci kusagjuNkuma(kusagajuqʔka) duːnu(duN) cjuʔkuci ‘juːna
千人の口をふさごうとするよりは、自分ひとりの口をふさげ
秘密や物議をかもすようなことをうっかり人に話して、ひろがるのを恐れ、千人もの人の口をふさごうとしても、もうおそいのだ。はじめから、自分ひとりの口をつつしんでおけばよかったのである。
千人ぬ 股や くぐてん(くぐても) 一人ぬ 肩 踏むな
シェンニンヌ マタヤ クグティン(クグティモ) チューリヌ カタ クサウナ?
sjeNniNnu mataja kugutiN(kugutimo) ʔcjuːrinu kata kusauna
千人の股はくぐっても、ひとりの人の肩を踏む恥辱を与えてはならない
千人から受ける侮辱はこらえて、ひとりの人に対する侮辱をもするな。屈辱には、なんとしても耐え、侮辱はだれひとりにも与えてはならない。
千足 一切り
シェンハギ チュッキルィ
sjeNhagi ʔcjuqʔkirϊ
千回もでかけて、たったひと切れの肉
猟師のくらしをたとえていう。猟というのは、千回に一度の獲物しか捕れないのである。
千匹ぬ 馬なん 積まんにし 一人ぬ 口 ひき
シェンビキヌ マーナン ツィマンニシ チューリヌ クチ ヒクィ
sjeNhiʔkinu ma:naN cϊmaNnisi ʔcju:rinu ʔkuci hiʔkϊ
千匹の馬に(食糧を)積むよりは、ひとりの食い扶持をへらすがよい
ひとりの人間が食う食糧は大変なものである。ひとりの食い扶持をへらすことは貯蔵と同じである。「一人ぬ 手 ふやそゆっか 一人ぬ 口 減らせ。チューリヌ ティー フヤソユッカ チューリヌ クチ ヒラスィ。ʔcju:rinu tϊ: hujaso ’juqʔka ʔcju:rinu ʔkuci hirasϊ」ともいう。
千匹ぬ 馬や ちゅう馬し ひきゃぶりゅん
シェンヒキヌ マーヤ チュヒキヌマーシ ヒキャブリュン
sjeNhiʔkinu ma:ja ʔcjuhiʔkinuma:si hiʔkjaburjuN
千匹の馬は一匹の馬で臆病になる
千匹の馬の群れでも、一匹の馬が恐れて浮き足立つと、群れ全部が臆して逃げ出してしまう。相手が多勢でも恐れず、まずリーダー格をやっつけてしまえ。
敷居 またがて 行けば 世間のことや 敵ち 思へ
シキイ マタガティ イクィバ スィケンヌコトヤ テキチ オモウィ
siʔki’i matagatϊ ʔikϊba sϊkeNnu kotoja teʔkici ʔomowϊ
家の敷居をまたいで行くと、世間のことは敵と思え
世間や 鏡
シキンヤ カガン
sikiNja kagaN
世間は鏡
世間は鏡のようなもので、よいことも悪いことも残らず映し出してくれる。世間でおこるいろいろな出来事は、大きな鏡にうつる絵巻物のようだ。
しくじり道 行け
シクジリミチ イクィ
siʔkuzirimici ʔikϊ
しくじりの多い道を行け
約束された安易な道を選ばず、障害の多い道を行け
仕事 待て
シグトゥ マティ
sigutu matϊ
仕事を待て
仕事がやってくるのを待ち構えておれ。仕事に追われず、むしろ次の仕事を待っておれ。
シグトゥヤ ハライルィ
sigutuja haraʔirϊ
和訳
解説
四五月や 人んにん 使わって 八九月や 猫の手
シゴグヮツィヤ チュンニン ツカワッティ ハクグヮツィヤ マヤヌ ティー
sigogacϊja ʔcjuNniN ʔcϊkawaqti hakugwacϊja majanu tϊː
和訳
解説
しこし 美人くま 生れ 美人
シコシ キョラムンクマ マーレ キョラムン
siʔkosi kjoramuNkuma ʔmaːre kjoramuN
化粧でよそおった美人よりは、生まれついての美人がよい
シシヤ ギシン ユリアユリ
発音英語
和訳
解説
シジャルクヮーヌ キョラサ ヒンギシャンユーヌ フュサ?
発音英語
和訳
解説
四十ぬ 目うどるき
シジュヌ ムィーウドゥルキ
sizjunu mϊː’uduruʔki
四十歳の目のおどろき
四十になれば目が遠くなるので、初老のきざしにおどろかされる。
しったり乞食や 自分ぬ 上や 見ゃん
シッタリクジキヤ ドゥヌ ウィヤ ニャン
siqʔtarikuziʔkija dunu ʔwϊja njaN
湿疹かぶれの、じめじめした乞食は、自分のきたならしさが自分ではさっぱりわからない
不潔な乞食でも、ならい性となって、自分も他の人と同じであると思うようになる。
シチグヮチ ブギン
発音英語
和訳
解説
七分 働らし、四分 保管 しり
シチブ ハタラシ、ヨンブ カンゴ スィルィ
sicibu hatarasi,joNbu kaNgo sϊrϊ
体力の全部を出しつくして働くのではなく、七分を出して働き、四分は残しておくものだ
肉体労働の仕事をするときは、体力の七分を出し、三分は残しておいてあすの仕事にもそなえておくがよい。
仕様なんど 煩悩や 付きゅり
シナシナミナンドゥ ボンノヤ ツィキュリ
sinasinaminaNdu boNnoja cϊʔkjuri
やること、なすことのひとつひとつの身のこなしにこそ、愛着がますますまさってくる
愛する者の身のこなしかたや、ひとつひとつのそぶりに、なんともしれない愛着がわくのである。
しぶ草や 嫁んじ むしらし
シブクサヤ ユムィンジ ムシラスィ
sibuʔkusaja ‘jumϊNzi musϊrasϊ
根の強い草は嫁に取らせ
引きにくい畑の雑草(力草)は、嫁にむしらせるがよい。
自分や 損 なてん 他人 損 なすな
ジブンヤ スン ナティモ チュヤ スン ナスナ
zibuNja suN natϊmo ʔcjuja suN nasuna
自分は損をしても、人に損をさせるな
自分は損をしてもよいが、自分のやったことで他人にまで迷惑をかけてはならない。
島ぬ 豊年や 海や よさ
シマヌ ホーネンヤ ウミヤ ヤスィ
simanu ho:neNija ʔumija ‘jasϊ
島が豊年のときは、海は不漁の年となる
稲作、豊作物、山の果実がゆたかに実る年には、どうしてか海の幸に乏しい年になる。
霜月、師走の 倹約時
シモツィキ シワスィヌ ケンヤクドゥキ
simocϊʔki siwasϊnu keNjaʔkuduʔki
霜月と師走は、倹約をする時期である
旧八月から旧九月にかけて、奄美では行事が多く、アスィビビ[ʔasϊbibi](遊楽の日々)が多い。各農地の物入り(出費)も多い。さて、ショーガヮツィアスィビ[sjo:gwacϊʔasϊbi](正月の遊び)にそなえて、旧十一月、十二月は倹約すべき時期である。
下黙り者ぬ 恐るし者
シャーダマリムンヌ ウトゥルシムン
sja:damarimuNnu ʔuturisimuN
いつもうつむき加減で押し黙っている男は、いざとなったら、おそろしい男になる
日頃しゃべらない無口の男は、一旦腹を立てると、だれの手にも負えない乱暴な男になるものだ。無口な男の機嫌を損じてはならない。
ジュー オモイヤ ヤマユリ ターサティ、アンマウムイヤ ウミヨリモ フカサティ
zju:ʔomoʔija jamajurita:satϊ, ʔaNmaʔumuʔija ʔumijorimo hukasarϊ
和訳
解説
十月ぬ 中ぬ 十日 人ば 使ゆん 馬鹿
ジューグヮツィヌ ナカヌ トゥーカン チュバ ツィカユン バカ
zju:gwacϊnu nakanu tu:kaN ʔcjuba cϊkajuN baka
旧暦10月の中旬の10日間、人を雇って使うのは、馬鹿のすることだ
日の出がおそく、日の入りのはやい短か日に人を雇うとは、馬鹿としか言いようがない。ナカヌ トゥーカ[nakanu tuHHka]は、ナハン トゥーカ[nahaNtuHHka]ということもある。
正直や 馬鹿ぬ いとこ
ショウジキヤ バカヌ イトコ
sjo:ziʔkija bakanu ʔitoko
正直は馬鹿のいとこと言ってよい
正直一途というのも、この世間を渡っていくためには、馬鹿と変わらぬ仕儀といえるだろう。正直すぎては周囲が迷惑することもある。
上馬ぬ 一癖
ジョーマヌ チュークセ
zjo:ʔmanu ʔcju:ʔkuse
良馬にも一癖はある
どんなに立派な人でも、ひとつだけ欠点はあるものだ。「ゆかり馬ぬ 一癖。ユカリマヌ チュクセ。’jukariqqmanu qqcjuqqkuse」ともいう。
上嫁 嫁ちや? 無ん 上親 ちゅんど 有ん
ジョーユムィ ユムィチヤ ネン ジョーウヤ チドゥ アン
zjo:’jumϊ ‘jumϊcija neN. zjo:ʔuja ʔcidu ʔaN
立派な嫁というのはいない
立派な親(しゅうと)がいるのだ。よい嫁だ、よい嫁だと世間では噂をしているが、ほんとうは、しゅうと・しゅうとめが人間として立派な人なのだ。
ジョジョヌ ツキユットゥ ジョジョヌ ショーグヮツィヤ ネン
zjozjonu tϊki juqtu, zjozjonu sjo:gwacϊja neN
和訳
解説
白百合ぬ いっぱい 咲きゅん 時や 稲や 生まれらん
シラユリヌ イッぺー サキュン トゥキヤ ニーヤ マーレラン
sirajurinu ʔiqpёː sakjuN tuʔkija ʔni:ja maːreraN
白百合(野性のテッポウユリ)が野山にたくさん咲く年は、稲は豊作にはならない
白百合は旧四月(現在五月)に咲く。南風が吹き、稲田も青々と伸びはじめる頃である。そのころ白百合がたくさん咲きすぎると、豊作は期待できない。
知らん 神 拝みゅんくま 親ぬ神 拝め
シラン カミ ウガミュンクマ ウヤヌカミ ウガムィ
siraN kami ʔugamjuNʔkuma ʔujanukami ʔugamϊ
わけのわからない神を拝むよりは、目の前にいる親を拝むがよい
いろいろな宗教の神を信仰して拝むよりは、両親を尊び崇めたらよいではないか。奄美では、親を尊敬して、ウヤヌカミqqujanukamiという。
知らん 人ぬ(や) 盗人、 夜や 雨
シラン チュヌ(ヤ) ヌスィド、 ユルヤ アムィ
siraN ʔcjunu(ja) nusϊdo, ‘juruja ʔamϊ
知らない人は盗人だと思え
夜は雨になると思え。本土の「明日は雨 他人は泥棒」「人を見たら泥棒と思え」に類する。
虱ぬ 眉ち 下がりゅん 時や 物知らせ
シランヌ マユチ ウルィン(サガリュン) トゥキヤ ムンシラセ
siraNnu majuci ʔurϊN (sagarjuN)tuʔkija muNsirase
髪に潜んでいる虱が眉のほうへはい下りてくる時は、なにかの予兆である
※藩政期から明治、大正へかけて、奄美の農村は窮乏の生活で、下層民の婦人たちの頭髪に虱がついていたのが普通であったといわれている。シランスィキsiraN sϊʔki(虱梳き)ということばさえ残っている。虱が額を伝って眉へ下りてくるというのは、ぞっとする光景だが、そのことをさえ「なにかの前兆である」とうらなった婦人たちの歴史が哀しい。ムンシラシェ[muNsirasje] は、ムンシリャシェ[muNsirjasje] ともいうことがある。
シルイシ カブラン ウチヤ チュー ワラウナ
siruʔisi kaburaN ʔucija ʔcu: ʔwaraʔuna
和訳
解説
シワスィ スィティツィ
siwasϊ sϊtitϊ
和訳
解説
銭金しど 仇や なりゅん
ジンカネシドゥ アダヤ ナリュン
ziNkanesidu ʔadaja narjuN
金銭関係で互いに仇同士になるのだ
銭金ゆっか 魂 呉れれ
ジンカネユッカ タマシ クルィルィ
ziNkanejuqʔka tamasi ʔkurϊrϊ
子どもには、銭金よりは知恵才覚をくれてやれ
子どもに銭金を安易に与えてはならない。それよりは生きていくための知恵を与えたほうがよい。
銭しや 笑わらん 子しど 笑わりゅる
ジンシヤ ワラワラン クヮーシドゥ ワラワリュル
ziNsiju ‘warawaraN ʔkwa:sidu ‘warawarjuru
銭(ぜに)がないといって人に笑われたりはしない
子どものことで、子どもの所業で人に笑われるのである。貧乏だからとて人は笑わぬが、子どもの育て方が悪いといって人は笑うのだ。
シンセツィヤ マツィヌ ハー
siNsetϊja matϊnu ha:
和訳
解説