石崎公曹の奄美のことわざ
「こ」から始まる言葉
川 油断 しりば 石子 孕みゅん
コー ユダン スィルィバ イシクヮ ハラミュン
koː ‘judaN sϊrϊba ʔisiʔkwa haramjuN
川で油断すると、石の子をはらむことになる
川で洗い物やすすぎ物をしている女の行動をいましめていう。川は両岸に樹木が繁茂しているところが多い。裾をたくしあげて膝や脛を出し、かがんで洗い物をする女の姿態はなまめかしく、男の欲情をそそる場合がある。川で安心して気をゆるめていると、石の子をはらむこともあるぞ。
川ぬ 先と 人間ぬ 先や わからん
コーヌ サキトゥ ニンギンヌ サキヤ ワカラン
koːnu saʔkitu niNgiNnu saʔkija wakaraN
川上に立って見る川の行く末と、現在目の前にいる人間の行末とは、なかなか見定めがたいものである
川はどのように河内や野を走り、どこの海へ行き着くのか見定めることが容易ではない。人も、今から先どのように世渡りをし、どのように人生を全うするかは誰にも予測できないものである。人の一生は、だれにも予測できない。「人生はあざなえる縄のごとし」「塞翁が馬」に類する。
五月月や 膝んがぶがり うさゆり
ゴグヮツィズィキヤ ツィブシンガブガルィ ウサユリ
gogwacϊzϊʔkija cϊbusiNgabugarϊ ʔusajuri
旧五月の季節は、梅雨のため、膝がしらまで田の水につかってしまう
旧五月の農作業で田に入ると、梅雨のために田の水も水かさが増していて、膝がしらまでもかくしてしまう。
五尺ぬ 身 一寸ぬ 口んねん 飲まれん
ゴシャクヌ ドゥー イッスンヌ クチンネン カマレン
gosjaʔkunu duː ʔiqsuNnu ʔkuciNneN kamareN
五尺のこの身も、一寸の口のわざわいでほろぼされることがある
口は災いのもと、身を亡ぼすことさえある。
肥し たー担め 蘇鉄葉 ちゅー担め
コヤシ ターカタグェ スティツィバ チューカタグェ
kojasi ʔta:katagё sutϊcϊba ʔcju:katagё
肥料の入れ方としては、堆肥を二担ぎ分に対して、そてつ葉の緑肥をひと担ぎ分入れるとよい
喰れぎり者ぬ 一生貧乏
コレギリムンヌ イッショビンボ
ʔkoregirimuNnu ʔiqsjo-biNbo
食いつくしてしまう者は、一生貧乏である
倹約し、貯えることを知らず、ただその場かぎりで食い放題に食いつくしてしまう者は、一生涯貧乏神につきまとわれてしまう。
心 持てば 稲穂ぬ 心 持て
コロ ムティバ ニーブヌ コロ ムティ
koro mutϊba ʔniːbunu koro mutϊ
心を持つなら稲穂の心を持て
心の持ちようは、稲の穂が実るほどに頭を下へ垂れるよう、謙虚であれ。この世間を渡るには、おごらず、いばらず、常に謙虚な心を持て。※この句のあとに「麦ぬ 穂ぬ 心や 持つな。ムギヌ フヌ コロヤ ムツナ。muginu hunu koroja mucuna 」と続ける場合もある。麦の穂は、直立して垂れ下がることがないからである。
心変わりや 為も 宿代わりや 為んな
コロガワリヤ シモ ヤドガワリヤ スィンナ
korogawarija simo ‘jadogawarija sϊNna
止宿先(宿泊先)について、ここの家よりもあそこの家がよかったなあと、気がかわっても、いったん決まった止宿先(宿泊先)を決して変えてはならない
スィンナ[sEINna](するな)は、スィルナ[sEIruna]ともいうことがある。
心暗さりば 先や むばん
コログラサリバ サキヤ ムバン
korogurasariba saʔkija mubaN
心が暗い人は、将来の人生も暗い
心が明るくなく、いつも暗い感じの人は、未来も暗い感じの人生をおくるものである。
心持ちが 世持ち
コロムチガ ユムチ
koromuciga ‘jumuci
心の持ちよう如何が世渡り
素直な心を持ち、他人とも円満にくらしていくのが世渡りの秘訣である
心や 芭蕉ぬ 葉ぬ 広さ 持て 松ぬ 葉ぬ 狭さ 持とな
コロヤ バシャヌ ハヌ ヒルサ ムティ マツィヌ ハヌ シバサ ムトゥナ
koroja basjanu hanu hirusa mutϊ.macϊnu hanu sibasa mutuna
心(度量)は芭蕉の葉のように広く持て 松の葉のよう狭く持つな