琉球語の美しさ
フミルー〈くいな〉
西に向かい、平敷の部落を通り過ぎると、ゆるやかな坂があった。右手の丘には、枝ぶりのよい老松が夕陽に映えて美しかった。坂をくだって行くと、小川に下駄でも踏み破れそうな板の橋がかかっていた。ヂニンサ橋といい、大水が出ると、水は橋の上を流れた。ここで兼次小学校の原校長の愛嬢姉妹が流されてテーナーとゥの港近くの川口に死体がかかっていたという、伝説のような実話がつたわってた。大正の頃までは、この一帯はすべて水田で、畑はなかった。野鳥が群れをなして飛び、かつて干潟であった趣をそのままとどめていた。川はまがりくねって、かつて干潟を自由自在に流れていたことが、はっきり察せられた。
このヂニンサ橋を通りすごすと、再びゆるやかな坂になった。道には、美しい松並木の老松がつづいていた。北山高校の前を過ぎてやがて平敷部落に右へ道が通じる。街道の両側も水田で、老松の枝が、青々とした稲の穂波の上にもひろがっていた。仲尾次字事務所の前までは水田はひろがっていた。そこの老松の下にも清らかな泉が湧いて、静かに溝をひたしていた。それから与那嶺部落にかけては、ハたイバルといい、水田はもうなかったが、おそらくはもともとは水田であったであろう。与那嶺部落の前も、われわれの子供の頃までは、水田は多かった。瓦葺きのテーラヤーという豪農家があったが、その前からヌガンナ、ハーヌくヮーにかけて、そこら一帯は水田であった。ヌガンナのそばの田には水芋がいつも植えられていた。田の上にたれさがる梢の上では、いつも小鳥がむらがりさえずっていた。与那嶺の前から親泊のナガーナーとゥにつづく広い田圃はかつては入江であったことはあきらかである。
この田圃の上にも、無数の野鳥が年中とびかい、うっそうと木の繁ったシくーヂャうガーミはそのいこいの場になっていたのである。杜のかげから湧く清流に足をひたしていると、いろいろの小鳥のさえずりが聞こえた。
稲の刈入れ時分になると、フミルー〈くいな〉が無数に飛び廻っていた。フミルーは至って捕えやすい水鶏で、どの家の庭にも田圃から捕えて来たフミルーが足をゆわえられてあった。その雛はおっかけて行くと、飛びもせず、頭を泥の中につっこんで、しっぽをあげてふるえていた。頭かくして尻かくさずとはこのことで、子供らも腹をかかえて、フミルーを生捕りにした。
しかしやがて水田が畑にかわり、フミルーは減り、ついに姿をかくしてしまった。戦後土地改良ですべての水田は畑となって区画されている。砂糖黍の白い穂が波のようにゆれて、もう野鳥は全く姿を消した。ただ白鷺ばかりが、昔を忘れず、群れをなしてときどき訪れて来る。どういう餌や魅力があってあの美しい白鷺の群が今も飛び舞っているのであろうか不思議でならない。
先日、国頭郡与那覇岳で「ヤンバルクイナ」という名の新種のフミルーが発見された。大きな体の割に翼は小さく尾も退化して空は飛べないという。嘴はまっかに鋭くとがっていて、泥を掻きわけていた脚は老農夫のように太く、爪が長くまがっている。七、八年以前までは、国頭の田の中でも見かけたという。ところが今は、米軍の砲弾のとどろく与那覇岳の木陰で身をふるわせながら、飛べもしない翼をはばたき、長い脚と爪でやっと身をささえ、ちびれた尾をふって歩き廻って餌をあさっているという。水鶏であるので、木陰に湧く清水にすむ小虫をついばんで生きているのであろう。ノグチゲラもそこにすんでいる。もう絶滅寸前の鳥だちが、砲弾に身をふるわせながらかろうじて生きている。ヤンバルクイナも珍鳥だという。
子供のとき田圃で追っかけて、泥の中に頭をつっこんでいたフミルーもこの種ではなかろうか。ヒくーヂャうガーミの杜の中にヤンバルクイナを連想させられる。自然環境もすっかり変り、水田から山の中にうつり住んで、木陰で退化した翼をはばたいて砲弾におびえ、絶滅寸前の生命をほそぼそに保っている。
人間の住む自然環境も急速に変化し、次第に住みづらくなりつつある。核は拡散して行く。人間もヤンバルクイナのような運命をたどらなければよいのだが。
ノグチゲラとヤンバルクイナの棲息地を沖縄がいまだに持っていることも不思議である。沖縄の自然に生態系のどんな尊いものが埋もれているのかわからない。人知をはるかにこえた不思議なものが、自然の中にはいくらも埋もれている。敬虔な気持ちになる。
米軍の砲弾で破壊されつつあるブート岳を見るにつけても、怒りのみがこみあげる。自然にさからって行く人類の将来があやぶまれてならない。自然は雄大無限である。人知をもってはかりしることの出来ないものをいくらでも宝蔵しているにちがいない。
▶原稿に(一九八一・一一・一五)の記述あり