琉球語の美しさ
ハーき〈赤木〉
昔から与那嶺にたった一本の赤木がある。赤木は、琉球から平泉の中尊寺建造に献木された重宝な木である。
『おもろさうし』一三の七七にもこんなのがある。
あかるいの大ぬし 大ぬしかまへに あかきゆすきのはなの ましろまからさきよれは おれよとて おりさちへ あけのつよにおされて なみきやよりきや はるよれは おれみにる ころたへ 又てたかあなの大ぬし
その一木というのは、今も与那嶺幼稚園の前に巨木になって枝をはり、園児たちをその蔭で遊ばせ、樹肌をなでさすらせてよろこんでいる様子である。戦後までもその枝のかげから、黄金の穂の波うっている広々とした田圃が眺められた。今帰仁の翠巒がその枝にさえぎられながら東西につづいている。どうして県は、この赤木を天然記念物に早く指定しないのであろうか。
戦前は、ここには幼稚園はなかった。そのそばに、部落で一番まずしいミスヤー〈屋号〉という家があって、小柄なおじいさんとおばあさんが住んでいて、一人の息子がいた。その東側にはいリンてーラヤーという家があって没落しかけている。茅葺に魔よけの木製の唐獅子をかざってあった。今帰仁では、ほとんど見うけなかったので子供らは、門前に立って大声をあげて唐獅子によびかけてからかっていた。その家の前から赤木の下へと細い路がつづいていた。すぐその下からは田圃になっていて、諸志までつづいていたのである。いリンテーラヤーはあひるを飼っていた。田圃の中を泳ぎまわり、ときどき畦道に白い卵を産みおとすので、子供はたえずあひるを追っかけまわしていた。赤木の根もとには、青黒いくわずいもが繁茂して、青大将がはいまわり、るりとかげが用心深そうに頭をかしげながらしっぽをふっていた。ミスヤーのぱーぱーは貧しかったので、よく海に出かけて貝を拾った。るりとかげのはいまわっているところには、貝殻が無数にほうり捨てられてあった。その中にティラーヂャンナというのがあって、それで指輪を作ったり、こまをつくったりもした。
赤木はあの時も巨木に見えた。その下は私の田であった。夏になると水を流しつくしてあギータ〈水の浅い田〉になって、わずかにあちらこちらのくぼみに水がたまっていた。その上に赤木の枯葉がおちてどこに水がたまっているのか見わけもつかなくなっていた。六才のときだったと記憶する。私は田におりてバッタを追っかけまわしていた。ふと足もとの枯葉を拾いあげると、その下には水がたまっていた。よく見ると大きな鮒がじっとしているではないか。両手でつかむとぴちぴちもがきはねる。手にあまる大きさである。水中を泳ぎまわっては捕えることの出来ない大きな鮒が水のひあがっている田圃の水たまりに、枯葉に蔽われて息づいていたのである。天からふった幸福をつかんだように金鱗きらめく大きな鮒をにぎりしめたのは幼少の頃の最大のよろこびであり、まだあの時の感触が掌に残っている。
▶原稿に(一九八一・一〇・一八)の記述あり