琉球語の美しさ

クガーニマス〈黄金塩〉、ナンヂャマス〈銀塩〉

七十三才の古稀の祝、八十五の生年祝、米寿のとき、祝われる老人の前には、塩が盆に盛られてあった。そのわきに鰹節を削っておいてあった。その前に出て、お祝いの酒盃をいただくと、てのひらに、クガーニマス〈黄金塩〉をのせ、鰹節を削ったものをわたしていた。酒盃とともにそれをいただいたのである。
私ががじめてクガーニマスをいただいたのは、ヒくヂャヌヤー〈屋号〉のぷーぷーのヒちヂューサンのこッち〈七十三のお祝い。古稀の祝い〉のときだったと記憶する。
ヒくヂャヌヤーのぷーぷーは、与那嶺部落では、はじめて首里づとめもして、役所でブヂョー〈奉行・役人の意〉をしたといわれる老翁であった。真白いあごひげを長くのばして、杖をつきながら、悠然と歩いておられた。その家の近くの田圃にペーフガー〈地名〉という泉が藺田にかこまれていた。今も、その跡が残っている。ペーフガーの井泉のそばにごえもん風呂をこしらえていた。
その当時、今帰仁村にも風呂屋は一軒もなかった。寒い冬中、人々がどこで体のあかをおとしていたのか、今もって見当がつかない。われわれ子供らには、冬中、体のあかを落した記憶は全くない。誰の首もまっくろく、力を入れてこすろうとするとうろこのようなあかのかたまりが剥げおちた。
そんな時代に、この老翁だけは、風呂をたいて、年中浴びていた。おそらく家庭に風呂を持っていたのは、今帰仁でこの翁一人であったにちがいない。
仏壇には紙張りの灯籠が二つさげてあった。正月になると、必ず首里那覇で作るような上品なコーグヮーシー〈落雁〉を作って、お膳の上にのせてあった。わたくしなどは食べるのがおしく、こっそり紙に包んで帰った。またこの翁もそのことをあらかじめ知っていてか、包紙をそばにそえてあった。
そうして年中、黒砂糖が甕に保存されていた。お遣いに行くと、必ず一かけらの黒糖をつつんでくれたので、お遣いに行くのがたのしみで、この翁が他の老人とはちがっていることが、子供心に感じられて、うやまいとうとんでいた。
この翁の七十三のお祝いのとき、母につれられてお祝いに行った。母といっしょに前にすすみ、お酒杯をいただき、てのひらに、クガーニマスと鰹節の削りをいただいた。あの朱色の酒盃とまっ白なナンヂャマス〈銀塩〉、クガーニマス〈黄金塩〉がいまだに脳裏にこびりついて離れない。
父の洗骨焼香(法事)のとき、墓前でお祭りをとり行なった。白髪の人品のよい婦人が眼の前にあらわれた。しばらくどなたなのか見当もつかずじっと見ほれていた。こんな片田舎にこうも上品な婦人がいるのだろうか。その話を聞きいっていると、純粋の与那嶺方言であり、士族のことばでもない。
しばらくしてシくヂャヌヤーのマちウンマだと気がついた。お人よしの人情こまやかな方である。シくヂャヌヤーのぷーぷーの二人娘である。妹は小夜子といい宮城桃幸氏に嫁いだ。子供のとき妖精のように美しいというのでセーマヌくヮー〈妖精の子〉と言われた。セーマーは木の精の意で、怪しい魔力を持つといみきらわれたが、セーマヌくヮーというあだ名は、「絶世の美人」という意味になって、いまわしい連想はまったくつきそわなかった。
姉のマちウンマを見ながら、ユナーミ〈与那嶺〉にもこのように人品の美しい婦人もおられるのかと、眼をみはった。マちウンマは極めて信心深い方でもあり、神事についてもくわしい。それがおのずと、身なりにあらわれているのであろう。父親から親ゆずりの天性の美があるからでもある。人間は、自分ではいかんともしがたいものを親からゆずり受けつつ、すこしずつ生涯の中にかえつつあるのかもしれない。
▶原稿に(一九八一・一〇・一九)の記述あり

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