琉球語の美しさ
パンドー・パンドーガミ<水甕>
飲料水を入れる口の大きい水甕のことで、『宮崎県方言辞典』にも「はんど、はんどがめ 台所などにすえておく大きな水がめ」とある。
戦前、どの家にも台所のそばには、パンドーが据えられてあった。私の家には、シマー<部落>で一番大きいパンドーがあった。張良と韓信の話が、小学校の教科書に出ていた。子供が甕の口べりを遊び歩いている中に、落ちてしまった。張良か韓信でしたか、石で甕をたたき割って、友だちを救い出したという話であった。家のパンドーの縁をさすりながら、支那の甕は、こんなところが歩けるほど大きかったのかと驚嘆した。
パンドーを置いているところをミヂヤー<水屋>またはパンドーヤーともいい、台所の入口の右側にあった。台所の入口に敷居があって、そこをまたぐと、シくブーといい、台所の土間になっていた。その土間では、女たちがあヂムー<杵>で米や粟、豆をついたりしていた。親鳥が杵の音を聞きつけると、雛をひきつれて、臼に穀物をついている女たちの足もとにたかって、こぼれ散る粟・米粉をついばんでいた。ひよこが敷居をのぼりかねて、小さな羽をばたばたはばたいているのが、いかにもかわいらしかった。ある日、母は外からやって来て敷居をまたいだとき、敷居の内側のかげにいた雛をふみつぶして殺してしまった。母の胸はつぶれるようにいたんだ。その夜一晩、ふみつぶした雛のことを思いつづけて、とうとう一睡も出来なかったと、悲しそうに私に話していた。
昭和十一年の正月のはじめ、民俗調査に来られた折口信夫先生が、この敷居をまたがれた。中にかまどがあり、その後にぴヌかン<火の神>が祀られているので、それを見るためであった。その時はもう母はとうになくなっておられた。あガーリヤー<東側にある離家>で、「あおりやへかみのとんちの いつき子に あにおとらめや よきむすめなる」と歌を詠まれて、正月二日に生まれた長女の名をつけて下さった。
パンドーには、いろいろの思い出がまつわる。晩方にはいつも桶をかついで、ハー<井戸>へ行って水を汲みパンドーに水をみたさなければならなかった。近くにテーラヤーヌカー<井戸>が掘られるまでは、部落のずっとはずれの田圃にある、ぷシマーガー<井戸の名>まで、水を汲みに行かなければならなかった。子供の力の及ぶことではなく、水汲みは母や伯母、ヂョーヒちャー<下女>などの毎日の大きな仕事であった。インヂャッくヮビー<下男下女たち>も多く大家族だったので、水の使用量は部落でも一番多かったためにパンドーも大きかったのである。夕方は溢れるほどにみちみちていたが、翌日の夕方になると、もう底をついていた。
私は、田圃から鮒をとり、田芋の葉に水を入れ、金鱗をきらめかせて、このパンドーに鮒を飼った。水が満ちあふれると大きな口をあいて、パンドーのふちのところまで浮かびあがった。水が底をつくと底の方ではぱたぱた騒いでいた。
正月になると、どの家でもソーグヮちャー<正月用に飼育してある豚>を屠った。子供も夜通し起きていて、暁に屠殺される豚の断末魔の鳴き声をまった。かまどには大鍋に湯をたぎらかす。パンドーにみちあふれた水をいくども汲んで大鍋にうめながら、正月のあかつきを待ったのである。
朝起きると、家族中のものが、パンドーの水で、顔を洗う。洗面器を用いず、柄杓に水を汲み、左手に持って、右手のてのひらのくぼみにそそぎこんで、それで、猫が顔をかきなでるように顔を洗うのである。ビンダレー<金盥>で顔を洗うようになったのは、大正も中頃になってからであった。水がきわめて重宝だったせいもあったのである。
戦争で私の家は焼かれずに残っていたという。ところが羽地村田井等に収容所が出来て、収容小屋をつくるために、羽地から焼け残った家を一軒一軒壊しに今帰仁にまで人夫がやって来たという。資材はすべて持ち去られて、屋根の赤瓦の破片ばかりがうず高くちらかっていた。あのパンドーのかけらもどこをさがしても残っていなかった。どこへ持ち去られたのか、今残っておれば立派な文化財になるのだがと、中に泳いでいた鮒を思い浮かべながら、いつもあのパンドーのことを思う。もうパンドーそのものもなく、ことばも永久に消え去るであろう。
戦後、私は照屋秀夫兄の母親を屋我地村我部に訪ねて行ったことがあった。兄は二十年六月十九日未明、伊原部落で私と同じ弾で負傷した。そのときは、私の方がむしろ傷は軽かった。大城兄と照屋兄と三名、もう前へ進むことはあきらめて、もとの第一外科壕にひっかえした。私がもう一度出て行こうと照屋兄をさそうと、血だらけの顔に鉄兜をかぶって岩を背にして、頭をふっていた。それっきり永久に別れたのであった。
母親一人を我部に残して、妻子は鹿児島のいずみに疎開させていた。戦争がすみ、私は我部に兄の老母親を訪ねた。前は静かな入江である。焼け残った家に八十をとうに越した老母が一人住んでおられた。私はことばもつまり、どうして兄の最後のことを話してよいかわからなかった。老母は薬罐をひっさげて台所におり、敷居をまたぎ、水屋へと歩かれた。そこには小さいパンドーがあった。老母のパンドーから薬罐へ水を入れる音がまだ私の耳底にこびりついて離れない。
▶原稿に(一九八一・一〇・一四)の記述あり