琉球語の美しさ

ハミルン<頭に乗せる>

頭に乗せる意、頭にいただく意である。上(かみ)を動詞化したのである。神に供えた供物をおしいただくことをハミルンといい、有難く頂戴すると、ハミルンドー<有難くいただきます>という挨拶語になる。老人たちがいただいた物を頭におしいただくようにしてハミルンドーといいながら感謝する。まだこの語は頭にのせるという意味をともないながら用いられているのであって、動作をはなれた頭のなかにある抽象的なひからびた概念ではない。もっと具体的な意味をともなっていてニヘー<(三拝)有難う>よりもより実感がともなっている。
国語には、「いただき<頂>」を動詞化した「いただく」があり、「上(かみ)る」という動詞はない。いただきは、琉球方言では、チヂという。那覇の辻󠄀はもともとは頂(つぢ)の意だが、とうに忘れられて、遊廓の意味でうちけされてしまった。「辻󠄀」はもともと辻󠄀原があり、丘があって高台になっていたので、そこらに頂(チヂ)があったのである。今帰仁の連山の中で高くそびえたっているのが、ハサンちヂという美しい山である。おもろにも「つぢ」は多く用いられていて、「つんぢ」ともなっている。あぢ<按司>が「あんぢ」となっているのと同じ変化であり、「あぢのつんぢ」などともいい、あぢの中の頂、即ち「あぢ」のなかの「あんぢ」最高の按司の意をなす。この「つぢ<頂>」の語は、中国地方、瀬戸内海の島々、九州にひろがっている。おそらく中国以北にもひろがっているにちがいない。
沖縄では頭の頂をちヂー(与那嶺方言)といい、「いただく」の代りにちヂーネー ハミルン(チヂニ カミユン)というのである。カミユン(与那嶺方言ではハミルン)は、頭に乗せる意である。沖縄では古い昔からものを頭に乗せる習慣があったであろう。京都の大原女は有名である。
内間直仁君の「中国の大学生活」の新聞記事を見ると、中国の朝鮮人がものを頭にのせているのを見て、郷里のことをなつかしく思い出したらしい。
沖縄で女の子は、子供の頃から、ものを頭にのせて持つ稽古をする。私どもが小学校に通った頃、女生徒たちは、学校の行きかえり、教科書を風呂敷に包んで、それを頭にのせて歩いた。一冊の本でも決しておとすことなく頭にのせながら歩く。足ばやに歩いてもおちることがない。実にたくみである。学校では、帯を前結びにすることは野蛮な風習だと方言と同じように厳禁されていた。しかし女生徒たちは、帯を後にまわすのにはなじめなかった。校門に入るときに、急いで前結びを後ろ結びになおして校庭へと歩いて行く。学校内にいる間は、がまんして後結びにしていたが、放課後になって校門を出るときは皆、前結びになおした。前結びにして、頭に教科書をのせながら、たのしそうにはだしで歩いている女生徒たちの姿がいかにもいきいきとして優雅であった。
女の子たちは、こうしてハミルンという語を身につけて行ったのである。ハミルンドー<いただくよ>ハミヤビラ<いただきます>ということばの語感にも、子供のときからの体感がともなっていて、ふかぶかと感じるのである。

© 2017 - 2024 シマジマのしまくとぅば
〒903-0213 沖縄県中頭郡西原町字千原1