琉球語の美しさ
くヱー<声>
死者が出ると、親類縁者がかけつけて来て泣く。それをくヱーという。「こゑ」であろう。各人各様の調子があって、部落内であの女は泣き上手だ、などと評判にもなった。大正の頃までは、そのくヱーで死人のあったことがすぐ部落中につたわった。そのとき部落の鶏の鳴き声がなんとなくものがなしく聞こえた。
妹ハナは三才でなくなった。私は親類縁者のくヱーの中で、悲しみがいっそう深くなり大声をあげて泣いた。しかしその声はしばらくして止み、母だけがいつまでも泣きつづけ、私は母のそばで同じように泣きつづけていた。どうして人々がいつの間にか泣きやみ、母と二人だけがいつまでも泣きつづけていたのか、子供心に不審に思いつづけていた。次第に成長して行くにつれて、かけつけて来て泣く人々は、心から悲しみ泣くのではなく、儀礼的に泣いていたことを知り、母の悲しみを一層深く感じた。
後世、このように儀礼的に泣くようになったけれども、最初は決して儀礼的なものではなかったにちがいない。上代へ行けば行くほど、感情はあらわにあらわしていたのであろう。今でも国頭のおばあさん方が、那覇へ行く孫を見送っていて、涙を流して泣いているのを見る。老人たちが話しながらもよく涙を流す。それからすると、死人が出たとき、ごく自然に涙が出て、自然に声を出して泣いたにちがいない。儀礼でもなかったのである。今帰仁あたりでは、ニービちー<結婚式>のとき、花嫁は家を出るときから、道々泣きながら婿の家まで行く風習があった。花嫁がにこやかな顔で、婿の家へ向うのはつつしみがないと言われてはばかっていた。
私は百名近くの媒酌人をして来た。いい嫁になると、直感した嫁のことをいつも思い出す。そうしてその嫁が、直感した通り、立派な嫁になって幸福な家庭をいとなんでいる。その花嫁は、仏前でご両親に別れの挨拶をかわしたとき、しくしく泣き、花嫁の美しく化粧した顔をすっかりぬらしてしまった。あの顔ほど美しかったものはない。よい嫁であればあるほど、親もとを離れる悲しみを深く感じるにちがいない。貧しい生活をつづけていた上代では、実家を去る嫁の心情は決して喜びにみちたのではなかったにちがいない。花嫁が婿の家に向う途中、泣きはらしていたのは、おそらく上代人のありのままの姿であったにちがいない。それが次第に儀礼化して、自由には泣けない、花嫁が泣くのに苦労することも出て来たのである。くヱーといい花嫁の泣き声といい、本源にさかのぼればさかのぼるほど、純であった。上代人は心から悲しみ泣いたにちがいなかろう。