琉球語の美しさ

トンボグヮー<偵察機>

戦争中、夕暮れ時になると、きまって敵の砲声は一時やんでしまい、不気味な静けさにかえった。爆撃機が飛びこうていた魔の空に、かろやかなエンジンの音をひびかせて、まるで竹とんぼが飛んでいるような、敵の偵察機が超低空で飛びまわった。トンボと誰いうとなく称していた。一日中、壕の中にもぐって息をひそめていた将兵住民たちは、この時とばかり壕から出て食を求め、水をさがして、野原いっぱいに蟻のようにむれひろがった。あの人間の群れを精密に上空から偵察したのである。やがてトンボがひきあげると、ひそんでいる壕へとグヮングヮン砲弾がぶちこまれるのである。あのトンボは悪鬼のようにさえ感じられた。それをトンボグヮーともいった。~グヮーという接尾辞をつけてしまうと、恐怖感などどこかへふっとんでしまい、沖縄人のずぶとさが感じられるし、徹底して敵をにくむことをしらない、人のよさがちらっと感じられる。テーゲーグヮー<いい加減>にも、にえきらない、なげやりな、何でもほどほどにしてすませる、おおらかともいえる沖縄人の気性を感ずる。
嘉手納屋良部落のはずれ県道十六号沿線に「サンパウロ公園」というのが出来て、小高い丘の上から、基地内の各種の飛行機の発着を見学するところがある。附近部落民は、耳を聾(ろう)する飛行機の発着の爆音になやまされつづけている。子供らも、ヤナヒコーキグヮーと小石を飛行機目がけて投げつけている。ヒコーキグヮーと接尾辞をつけると、むき出しの憎悪はどこかへぬけてしまって、人のよい沖縄人の本性がのぞいているように感じられる。グヮーという接尾辞によって、すっかりとげとげしさがなくなり、本性がぼかされ、ときには茶化されて、うつろなものにかわり、滑稽に感じる。沖縄人はやはり闘争の民ではなく、平和な民のようである。
▶原稿に(一九八一・八・十五)の記述あり

沖縄戦中、夕方の一時、敵の砲声はいっさい止んで、敵の偵察機がブーブー軽やかな音を立てて飛び廻った。裸の操縦士の姿も見えたともいう。銃弾を落すでもなく、低く飛び廻った。壕にひそんでいた兵隊も住民もこの時ばかりと、はい出して、水を汲み、野畑の野菜や芋をとった。戦争から解放された一時であった。その偵察機は、形が竹とんぼに似ていたし、すいすい軽やかに飛ぶさまもとんぼに似ていた。誰いうとなく、沖縄中の者がトンボといっていた。なかにトンボグヮーとわざわざグヮーをつけて、いやしめ呼ぶ者すらあった。トンボという名称は決してある個人がつけて、それがだんだん沖縄中にひろがったのではなく、期せずして多くの人々の口から出た表現であった。実際にあの偵察機を見た者は、トンボということばをすぐ思いついた筈である。まことに妙をえた適切なことばである。
真尾悦子さんの作品の中にもトンボグヮーが出ている。
沖縄戦を体験していないある読者が、あのトンボは改めた方がよいと、作者に注意したようである。あれほど妙をえた適切な表現が、体験しない者には全く通じない。トンボというような簡単なことばさえ、沖縄戦を体験した者と体験しない者の間には、非常なへだたりがあって通じない。ましてや、沖縄戦の体験全体を体験しなかった者につたえることは極めて困難である。
死に直面して生命の深さをのぞき、生命の尊さを知った。生命は極めてもろい。しかしまた、生命は極めて強靭であり、容易に消えるものではない。永劫の過去からつづいて来ている生命の神秘におどろく。みえるものはみえないものにさわって永劫の過去につらなっている。

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