琉球語の美しさ
心と肝
琉球方言は「心」よりも「肝」を多く用いる。語彙としては興味ある語である。大阪に出稼ぎに行った沖縄人が肉屋へ豚の肝臓を買いに行って豚の心を売ってくれと求めたが、肉屋に通じなかったという笑話がある。肝と心とを転倒しているからである。
どうして「心」がここでは勢力をえず、「肝」が勢力をえて来たか、この語彙がどのように沖縄語の中に勢力をはっていったかは、沖縄人の精神生活を分析する点からも極めて重要な語彙である。
首里方言で複合形になっていないのが、今帰仁方言では複合形になっており、今帰仁方言で複合形になっていないのが、首里方言では複合して居り、肝に結合することばが非常に多く、沖縄人の心情をいろいろに表現している。何故「心」が琉球ではそれほどつかわれずに、肝がこのようにいろいろの変化をするようになったか語彙の点でも深く考えてみる必要のある問題であり、それにはいろいろの問題が含まれているにちがいない。
ちムサワーヂ<胸騒ぎ>・ちムシかーラセン<うら寂しい>・ちムガーナセン<いとしい>・チムガキュン<首里方言 心掛ける>・ちムガかイ<気がかり>・チムドゥーイ<首里方言 思い通り>・ちムダくミち・ちムダくダくー<胸がどきどきして気持が悪くなること>・チムチャーガナサン<首里方言 うら悲しい>・チムビルサン<首里方言 心が広い>
首里方言 ククルベーサン<目ざめやすい>・ククルガキュン<心掛ける>
首里方言 イチヂム<心、心情、人間としての心、生きている人間本来の心。生き肝にはナマヂムという。>・イチヂム ムッチョーティ ウンナ クトゥヌ ナユミ<人の心を持ちながらそんな(むごい)ことができるか。>
ちムーヌ シヌーバラーヌ<悲しみ、あわれみの情に堪えられない>
『琉球館譯語』心ケタ羅 『おもろさうし』うらきらしや
「肝(チム)高(ダカ)」という言葉がある。勝連城にいた阿麻和利は肝高であったという。この語の意味は語列が少ないので明確な意味は決定しにくいが、我々が直感的に把握されるところでは大空のようにからっとはれて、わだかまりもなく、いわば天空快闊で、意気さかんなさまを想像させる。阿麻和利が太平洋を見渡しながらほこらかに城頭に立っている雄姿をこの肝高ということばが暗示しており、もと勝連城趾にあった前原高校の校歌に肝高という文句があったが、方言だからまずいというような感じはしない。共通語では表現しえない若人の持つべきおおらかな気持が、うもれた沖縄のことばの中からくみとることが出来るような感じがする。