琉球語の美しさ
ナダーグルー マールン<涙がにじむ>
直訳すると、涙がにじむ、涙がこぼれる、涙が出る、としか訳せない。しかし、ナダーグルー マールンには、涙がにじむでも、涙がこぼれる、涙が出る、でも言い表わせないものを含んでいる。グルーという語はまるい貝殻の殻も意味する。シディグルーというと、雛が孵化して出た卵のからである。へびのぬけがらにもいうが。ナダーグルーには玉のようにまるいつぶらの感じがある。露の玉をも連想させる。クてィー<牡牛>の眼玉はいかにも悲しそうである。闘牛で勝ちほこったクてィーの眼にさえ悲しみをたたえて、涙がにじんでいるようにさえ感じられる。暗い牛小屋の中にはいって行ってみると牡牛の眼玉などは、くらがりから悲しみをもってあらわれて来たようにさえ見えて、とてもたけだけしさはない。その眼玉は涙にぬれている。人の涙は決して露玉のようにまるいつぶが、眼のあたりにあつまりはしない。涙がにじむ、涙が流れる、涙が出るという語が、涙の実体に近い。ことばは決して事物を写真にうつしてあるようなものではなく、事物を心眼にうつしてあらわしているのである。ナダーグルーは肉眼にうつっている実態ではなく、心眼にうつった映像である。それだけに、一層、真実がせまる。つぶらな眼のまわりに露のような涙のつぶが出来ることは、事実としては生存しないが、しかし心眼には、やはり、涙が露の玉のように出来て、それがぐるぐるとめぐっているように感じられるのである。事物の実態をうつしとったものではなく、心眼にうつったものを表現しているだけに、一層真にせまる。ナダーグルー マールンには、そんな迫実性がある。
私はこれまで、悲しくなると、眼玉のあたりに、涙が露の玉のように出来るものとばかり思いこんでいた。ところがナダーグルー マールンの訳をつけて、眼にできる涙のつぶがその様相をおびることとしたら、涙のつぶとは、どういうことですかと、問いかえされて、涙のつぶは涙があふれて落ちるときにしかないことを教えられた。よく注意して観察していると、眼の中につぶらになった涙の玉つぶはない。それは、心眼にうつった玉つぶであって、決して眼の中に生じているものではない。考えてみると、ことばというのは、すべて、心眼にうつったものであって、決して事物のそのままの写真ではないのである。ナダーグルー マールンは、何という絶妙な逸品であろうか。