琉球語の美しさ

ワーたンヂャー<渡り川>

諸志と与那嶺の境にワーたンヂャー〔waat’anzaa〕という所がある。私はわーたンヂャー〔ʔwaat’anzaa〕と子供のときから聞きおぼえていたので、ワーたンヂャーなら「渡(ワタ)り川(カワ)」と解けるが、わーたンヂャーでは〔ʔ〕のついている理由がわからなかった。〔ʔwa〕ならば〔ʔuwa〕〔ʔiwa〕からの変化でなければならないからである。それで諸志出身の母にその発音をたしかめると、ワーたンヂャーで、わたしのわーたンヂャーはあやまりであることがはっきりした。それで、ワーたンヂャーが、「渡り川」であることがはっきりした。
諸志と与那嶺の間には、はっきりした方言の境界線がある。
現在の自動車の通っている街道が出来たのは、われわれが小学校の頃であった。その前までは、今も残っている杜の中を南へとはいり、さらに右へ曲って、シくーヂャガー<諸志川>へ出る道であった。うっそうとした樹木におおわれて、昼なおくらく、ひんやりとした道であり、春になるといろいろの蝶が木から飛んで来るし、夏には話し声が聞こえないぐらいに蝉がやがましく鳴いていた。左手の杜の中には、ミーとゥンバ マち<めおと松>の老松が枝をひろげていた。シくー ヂャガーは、美しい瓦屋根をふいていて、その中から清冽な清水がこんこんと湧き出て、水汲みの女の姿がいつも見受けられた。そこを通りすぎると、丘を削りとって出来たような坂道があった。右の丘の頂上には、老松が並んでいた。そこに、祠が建っていた。由緒のある所らしいことが、子供心にも感じられた。小学校の頃までは、この道から学校に通ったのである。この道が、ずっと大昔からの道ではないことは、削りとられた道の両側の土手を見れば、すぐわかった。
この道のほかに、諸志へ通ずる細道があった。杜の北の端をムくリ川(ガー)の清流が流れていたが、その流れの川の土手のようにしている小道があった。この清流は、やがて、杜の西端を流れる川とまじわる。落差があるので、その水は、大きな樋にひいて、川の上を流して部落の東のへりへとひいていた。この一帯をワーたンヂャーというのであり、まさしく渡り川であった。杜の西端の流れる川はそのまま田圃にまっすぐ流れていた。ムイヤマーといい、田圃の中にこんもりとした小高い木立があったが、その近くを流れる川を、ナハーガーラといっていた。そこを流れて諸志の北方にあるナーとゥに達した。さらにこの小川は親泊のナガーナーとゥにまで流れて、海に注いだのである。
杜の中を南へ通ずる道路の出来る前、与那嶺から諸志へは、ワーたンヂャーを通ったことはまちがいない。その道は部落の中へとつづいて行ったことは、古老が今も語りつたえている。ワーたンヂャーから部落内への道をたどり、すこし小坂になる十字路の片隅に、焚字炉が草におおわれて残っている。沖縄でも今ではめずらしい遺物である。
ワーたンヂャーを渡って通った与那嶺と諸志は、交通はかなり不便であったであろう。ムイヤマーの東側の田はユビータ<深田>であった。太古は、この一帯は入り江であって、親泊のナガーナーとゥからさして来る潮は、この一帯までさしていたことは、もううたがう余地もない。今では土地改良によって、畑になっているが、もとは田圃であって、青田が親泊までつづいた。その上を無数の鳥が飛びかうていた。とくに白鷺の群れが空を舞い、青田の上に翼を休めているのは人目をひいた。この田圃の中に、与那嶺から諸志へ渡る、もう一つのあブシミちがあった。ユナンガー<与那嶺川>のハンちビ<川尻>で、流れに足をひたしてあぜみちをたどり、ムイヤマーのそばを通って、ナハーガーラを渡って、ワーたンヂャーへ出た。平敷と崎山の間にもワーたンヂャーと称するところがある。
今は与那嶺、仲尾次、崎山、平敷と大きな街道が通っていて、もう昔の様子をうかがうことは出来ない。北山高校の東から平敷の部落東にかけては、両方から傾斜した道であった。大八車が一台やっと通れるほどの道であった。その一帯をヂニンサといい、水の枯れた小川があり、下駄でも割れそうな板橋がかかっていた。大雨が降ると、川はたちまち氾濫(はんらん)して橋が見えなくなった。この橋で、大正の初年、原という兼次校の校長の二人の娘が、激流に流されて死に、今も伝説のようにそのあわれな話がつたえられている。この川すじは蛇のようにまがりくねってテンナーとゥに注いでいるが、この一帯も深い入江であったことは、はっきりしている。小鳥が群れをなして飛んでいたのは、昔の干潟をしのばせた。
ずっと以前はこの街道はなかったであろう。潮のさして来る入江であり、平敷と崎山・仲尾次との間の交通路はここではなかったはずである。
ヂニンサのずっと川下に、平敷と崎山と陸地のもっとも接近したところがある。現在は、道路が通じている。その一帯がワーたンヂャーである。そこも、おそらく、陸つづきではなく川を渡って交通していたにちがいない。平敷と崎山は、もっぱらこのワーたンヂャーを通じて通っていたのである。おそらくこの道は崎山を通り、仲尾次、与那嶺部落の後を通り、親泊のナガーナーとゥへ通じたのである。
諸志と与那嶺との間にあるワーたンヂャーと、平敷と崎山との間にあるワーたンヂャーは、今帰仁のいリホー<西部>の交通にとって、極めて重要な箇所であったし、この不便を克服して、新道が新たに造られたのである。潮の水位がひくくなり、陸がもりあがり、人知の発達につれて、交通道のいちじるしい変化を見るに至った。
ワーたンヂャーの川を、流れに足をひたしながら渡っていた祖先の姿がありありとうかぶ。
平敷・崎山・仲尾次・与那嶺の方言は一つのまとまりをもっているが、諸志と与那嶺の方言にはかなりの相違がある。
崎山は平敷から移り住んだ民ではなかろうか。崎山、仲尾次、与那嶺と次第にひろがったのであり、与那嶺が新しい部落であることははっきりしている。
兼次と諸志の方言はほとんどちがいがなく、諸志が、西から東へと発展して来たことも明らかである。二つのワーたンヂャーは過去の部落の交通を考える上に極めて重要である。
▶原稿に(一九八一・五・七)の記述あり

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