琉球語の美しさ
笑う
笑うということばは極めて意味がひろい。人間の笑いを分析すると、まことに複雑多岐であって、その深さもはかり知ることは出来ない。喜び笑うことはごく普通の意味である。人に笑われて喜ぶ者はいない。相手に笑われて高笑いするのは阿呆である。当然喜び笑うことと嘲笑とをことばの上で分化させねばならない。宮古では喜び笑うことはアモー(アマフ)といい、嘲笑をバローというそうだ。昔は沖縄もそうだった。首里城の入口に歓会門があった。よろこび迎える意味からつけたので、アマエウジョウを漢語になおしたまでのことだ。後世アマフという意味がわからなくなってハーメーウジョー<老婆門>になってしまったそうな。その頃はもう歓会門も古色蒼然としてあたりは樹木鬱蒼としげっていたのであろう。腰のまがった老婆が薪を拾って杖をついている姿はいかにも田園の情景にはふさわしかったのかもしれない。観光ブームの今日、守礼門がいくつも立ち、酒礼も出来ているのだから、どこかで歓会楼と名づけてひともうけしそうなものだが、アメリカユー<アメリカ世>になって唐風はマッチしないのか、それとも文化財保護委員会を憚ってだろうか。全く笑えなくなってしまった。それでも沖縄にはカタクチワレー<ふくみ笑い>があり、ミーワレー<目笑い>、ウスワレー<うす笑い>があり、幽霊のシラワレーがある。ワレーカンヂュン<笑いこける>もあるのだから、キャラウェイの圧政下であろうが、「笑い飛ばし」てやったらどうか。
▶原稿に(一九六四・三・二八)の記述あり