琉球語の美しさ
ヨーネーユヤーシミ<宵闇>
時計のなかった時代には、時間を区画する必要が感じられたのである。今では何時何分というぐあいにあらわすので、その必要はなくなった。電灯もない、松明を惜しみながら燃やし、一人で一つの松明ももったいなくて、松明を炊くと必ずその周囲には多くの者が集まった。明暗に対しても現代人よりはるかに敏感であり、それを表現する必要を感じていたのである。大晦日の闇などは、年を迎える者にとって、どれほど不自由に感じたであろう。別に十二月の晦日が一番闇いということはないのに、ソーガちユヤーシミ<正月の闇夜>ということばが出来ている。私などにはあのまっくらな闇の中から部落方々で屠(ほふ)られる豚の断末魔の叫びが聞こえて一層大晦日のくらさを感じさせる。豚を屠(ほふ)るために夜ふけに起きて、大鍋に湯をたぎらした。あかあかと燃える火にぬくもってふと外へ出ると真っ暗であり、ことのほかに闇黒を感じた。正月を迎えるという明るい期待が大きいだけに一層くらさを深く感じたのでもあろうか。
ふだんでも、宵月の出るときはさほど不便がないのだが、月のない時は暮れるとすぐくらくなる。ヨーネーユヤーシミというのである。暮れたかと思うとまもなく道で会っても相手の顔がはっきり見えない。ヘイという呼びかけをかわすのがならわしで、昼は道であっても、挨拶をかわさない村人達が、宵やみがせまり、かすかな足音がすると「ヘイ」と声をかける。もう村中の人々の声は聞きわけているのだから、ヘイという声をかけただけで、誰だということがわかっているし、誰もそれ以上、聞きかえしもしないで黙って通っている。那覇に出て、行きあっても挨拶もかわさず通るのが我々には不思議でならなかった。