琉球語の美しさ
ほほとあご
人間の顔ほど大切なところはない。女性など顔のために生きているようなものだ。ところがその顔面の名称となるとこれほど不安定なものはない。自分の顔が自分では見えないように、どこか見えない盲点がある。眼や鼻はさすがに中心に厳然とひかえているだけに昔から今日に至るまで何の変化もないが、ほほに至っては、まことにあいまいだ。あんなに美しいほほだのにと思う。ほほえむのもこれ、笑くぼもここに浮ぶ、いや、くぼむ。詩人ハイネは、「いや、えくぼは恋人のたんつぼだよ」とくさしたけれども。歯並びの美しさにあれほど鋭敏な南島人も、ほほは捨てて顧みない。調査をしていて全く驚く。ほほのすっかりおちくぼんだおばあさんが「あー 〝つー〟」だと答えてくれるくらいで、若い娘さん方はもうほほに人差指をあてて考えこんでいるばかり。「フータイ」とはどうもこぶのおじいさんしかうかばないし、チラブクはふくれ面を連想させる。「アゴ」に至っては尚更あいまいである。ウトゥゲーは顎骨を含めて全体か、カクジはどうか、カマチはどうかと問いただすと大方わからなくなる。御本人は分かったつもりでも、他と比較してごらんなさい。あごがはずれたようにまるでちぐはぐだ。
ホーはホトと関係があるらしい。えらい学者が「安寧天皇御陵名義私考」という論文を書いて論証している。