琉球語の美しさ
むすびにかえて
今帰仁の色に濃くそめ
私共は郷土を離れて人間となることは出来ない。美しいこの今帰仁は私共の郷里である。我々の祖先はこの島に生まれこの島に死んで行った。何千年つづいたか知らない。その骨は岩かげに朽ちている。しかし私共は今ここにこうして現に生きている。こうして生きていることを皆様は深く考えたことがあるでしょうか。皆様の中には或は、自分は生まれたくなかったがここに生まれて来たという方があるかも知れぬ。しかし現に生まれてここに生きて居られる。我々はこの自然とこの今帰仁の土地とこの社会が存在しなくては人間としては生きることが出来なかったのである。してみればこの翠(みどり)、この清水、この海、郷土の一切のものが我々に深くしみついて離れない。幼少の頃はえてして郷里を非常に卑下する。与那嶺か、あんなところに何があるか。ああ崎山か、あんなところに何がある。今帰仁か、あんなところに何がある、と毎日見馴れている一切のものに対して、青年は非常にいやしめる。一切の具体的な存在を極めて軽視する。自分の親がつまらなく見えたり、自分の兄弟がつまらなく見えたり、自分の先生がつまらなく見えたり、自分の学校がつまらなく見えたり、ついには自分の顔がいやになり、自分自身がいやになり、ただ、自分の心の中にえがいている空想、幻想のようなものだけが美しく、又尊いもののように見えて、我々の感覚にふれる一切のものがみにくくいとわしく感じられる。特に青年諸君が大きな理想にあこがれる時は、諸君の眼の前に存在している一切のものがつまらないものとして感じとられるであろう。しかし、我々の発展する一切は現実の地盤を離れてしかないのである。ここに我々が立って生きている地盤をはなれては一切のものは生まれて来ない。将来、詩人として大成される方があるかも知れぬ。その方はこの美しい郷土の自然に触発された心がその詩を生む。その影像が生涯を支配して動くのである。音楽家になる方は諸君が郷土で聞くあの三味線の音が生涯の音楽の素養となるのである。大科学者になる人は、この自然をみつめた時の心が発展して偉大な科学者になるのである。諸君をとりまいているこの今帰仁というのはどこにもざらにあるようなところではなく、ただ世界に一つしかないところである。そうしてこの一つしかない土地が我々に与えられた唯一のものであって、我々は郷里を二つ持とうとしても持つことが出来ない。我々が親二人から生まれ、それ以上の親を持ちえないように、この今帰仁という一つの自然環境しか持つことは出来ないのである。これからのがれようとすることは全く不可能である。してみると、この自然をどううけとるかということは我々にとってこれほど重要なことはないのである。のがれようとしてものがれることの出来ないこの自然をどうとらえるか。大体これをのがれようとする態度が私はよくないと思う。我々はこれからのがれることが全く出来ないのだから、結局はこの自然をどううけとって行くかということにかかわりを持たねばならぬ。深く愛することだ。
もっとも偉大な今帰仁人になれ。それ以外に諸君が偉大になる道はない。