琉球語の美しさ
守(まも)り
「まもり」ということばは護衛する、防御する、保護するという意味のことばである。しかしこの語にはもっと不可思議な力がこもっており、人間以上の力が予想されている。琉球では幽霊のことをマブイともいうし、人間の中にあるタマシイもマブイであり、人間のたましいは人間から時々遊離し、脱落することがある。マブイ フとゥスン<霊魂を落とす>といい、マブイはユたーによって、再び呼びもどしてこめるのである。これをマブイグミー<魂籠め>という。
かかしのことを「ナーシルマブイ」というところがある。(沖縄中でかかしの方言はなかなかさがせない。小学校の読本でならった山田のかかしをつかっているが)ナーシルマブイはいかにもこの久延毘(クエビ)古(コ)にふさわしい名であり、それはさむざむとしたふきざらしの田のあぜにしょんぼり立って、青々と芽を出している苗代を、鋭い爪をむき出して、青空からねらっている鳥類から守っているのである。
「屋守(やもり)」は今帰仁方言ではヤーヂマーブイという(ヤーヂのヂは何か)。琉球のヤーヂマーブイはかん高い声で鳴く。留守番をしている時など、がらんとした家でヤーヂマーブイの鳴く声は無性に寂しさをさそう。井守も同じく井を守っている。こんな小さい動物に不可思議な力を感じなければとても井を守る力などあるまい。沖縄の中南部ではもうほとんど井守はいなくなっており、島尻では島のはしばしにわずかばかり昔から残っている林のかたすみにおいやられて棲息しているが、もう多くの人々はその名を忘れかけており、大里などではトカゲとイモリの名をあべこべにしている。ところが国頭地方に行くと、どこの山かげにもあのグロテスクな黒色の井守が棲んでいる。あの真っ黒なグロな形をして真っ赤な腹をしてはい廻っている形はどうも蛮地を思わせる。およそ上品風雅などとは縁の遠い動物である。それでいてこの井守は金城楼閣にもひとしい清水の中にすんでおり、神話の豊玉妃の下僕かと思う。私は琉球では世界一最上の名称をこのグロテスクな動物に進呈していると思っている。清水のことは「ソーズ」という。ソーヂ川(ガー)にはところどころチスヂノリがはえている。チスヂノリなど天然記念物にも指定されるほどの珍奇な藻ならば美しい名称をつけてよかろうが、この井守にソーズ守(清水守)とはもったいなさすぎる。これほどのかほうものはない。しかし考えてみれば、名前に「美」のつく女にして醜女はいくらでもいるのだから、それほどとがめるにも及ぶまい。清水のにごりをすっかり吸いとってああして黒く又赤くふくらんでいるのかもしれぬ。風雅のない動物だが名だけは素晴らしい。
「モリ」は『魏志倭人伝』に卑奴母離(ヒナモリ)(鄙守)とあって、日本語としてはもっとも古く記録されたことばの中に入る。その存在をつきとめうることばであって、三世紀に既につかわれたことばである。この古いことばを、ヤージマブイ<やもり>、ソージムヤー<いもり>というグロテスクな動物が名にもっていて、古天井のすすの中に棲み、古井戸の枯葉の上をのそりのそりと歩き廻っている。そう考えると幾世代をへて生まれかわり生まれかわりしたこの小さい動物が「もり」という古色蒼然たる名を冠して、人目もつかないところに、眼だけを炯炯(けいけい)とかがやかしているのかもしれない。マブイ<幽霊>といい、「守り」ということばの中には、百鬼夜行した古代のくらいかげがまとわりついているような気がする。「子守」のように可愛い子供をおぶっている。世代の波におし流されて、今では解説を加えなければならないほどに人々の意識の底へとうもれてしまっている。