琉球語の美しさ
シかー<鯔(ぼら)の子>
『全国方言辞典』にも「つくら ①鯔の小さいもの。江戸(重訂本草)・宮崎県西諸県郡。②鯊。はぜ。鹿児島県種子島」とあり、種子島から北宮崎ともっと北方にひろがって、この小魚が飛びまわっていたにちがいない。
われわれが子供のとき、いつもシかー<小魚の名>を見かけたのは、諸志の後方にあったナーとゥでであった。おそらくこのナーとゥは、昔の港で、舟が停泊したところにちがいなかろう。私たちの子供の頃までは、かなり深く、子供が溺れて幽霊が出るともいわれておそれられていた。一年に一回ソーきターゆーといって部落の人々が皆で、池をにごらせて、鮒や蟹、鰻などを捕った。シかーもざるの中に捕えられていた。この小魚はとてもすばやく捕えにくかった。私がいつも見たのは、ナーとゥの西の尻口から流れて行く細い清流に泳いでいるシかーだった。その形は鮒よりも細長く円錐形をして美しかった。動作も敏活だったので、鮒のようには捕えられなかった。このシかーはずっと下流の今泊のナガーナーとゥから泳ぎのぼって来ていた。この小さい清流は時代がさかのぼるほど大きく、この田圃の中を流れていたに相違ない。昔は群れをなして、ナガーナーとゥから泳いでここまで来たにちがいない。もとはこの一帯は漫々と潮をたたえた入江であったのが、次第に干潟になり、潮も後退して、やがてその中に水が流れて川すじが出来ていったにちがいない。川筋も次第にせばまり、細い溝となってシかーが二、三匹とつれ立って泳いでいるのである。遠く本土にもひろがっていたこの小魚は、南島の川にも多く棲息したのであるが、流れの水もかわき、次第にすみ場を失っていた。それでもわれわれの子供のときまではまだまだ三々五々つれだって細い清流を敏活にはねまわっていた。その頃には流れの土手にはシリ<せり>もしげっていた。ところがもう今では、田圃もなくなり、田に棲んでいたいっさいの魚貝類はすべて死滅してしまった。
シかーのあのすばしっこい姿をうかべていると、あの一帯の地形の変化におどろく。もう誰の眼にもその姿はうつらないし、想像する者もないであろう。自然の変化とともに滅びゆくものの悲しさが惻々(そくそく)とせまる。