琉球語の美しさ
火
炎には「ほのほ」の訓がある。火の穂である。古代に、原野にもえつづけていた野火が今では見ることが出来ないように、現代人はほのほが火であり穂であることなどはすっかり忘れてしまっている。「東の野にかぎろひの立つ見えてかえりみすれば月かたぶきぬ」の万葉の歌のかぎろひは、炎の字をかぎろひと訓ませたのである。かぎろひの「か」はおそらく太陽の意の「か」であり、ふつか、みっかの「か」とも同じであろう。かげろふは日気を動詞にしたのであり、後世、影・蔭の字をあてた。日かげ、月かげは、日光、月光であったのであり、宮古のカギーカギ<美しい>、八重山のカイシャン<カギシャン<美しい>のカギも、沖縄本島のカーギヌ アン<容貌が美しい>も上代のかけ<日気>から来ていると私は思っている。
「ほのほ」や「かげ」の中に、火や日の意味がすっかりうずもれ消えてしまった。私たちの火や日に対する感覚はもうすっかりまひしているのではなかろうか。
戦争中、私は南風原陸軍病院の、患者がいっぱいし、うめきつづけている壕の入口から、東方はるかに大里城址一帯の丘を眺めていた。昼の間、猛爆がつづき、やがて日が暮れてしまうと、丘陵斜面の家々は、消す人もなく燃えるがままにもえ、野も燃えつづけていた。私はあの野火を見ながら原人たちがさまよっている姿を眼に浮かべた。野火とはこんなものだと実感しつつ、燃えつづけている火を夜通しみつめて、原始の闘争の時代にかえっているような錯覚をおこした。
子供の頃は、マッチ一本一本極めて重宝なものであった。ヒきーヂといい、その一本一本を大切にして、滅多につかわず、多くの家庭では、埋もれ火で朝のたきつけをした。埋もれ火が消えてしまった朝などよく隣家へ火をもらいに行かされた。当時は下駄もなく跣足だったので、寒い中をつめたい朝の土を踏んで火をもらいに行くことはつらいことであった。ぴーとゥイにフちーリ<たきおとし>をもらって帰って、火をたく。炎をたてて燃えさかるのを見て火の神秘を感じた。そのそばには「火の神」がまつってあり、子供心に神威を感じたのである。