琉球語の美しさ
ハかンバナ<赤花>
「赤花・仏桑華」のことである。ハかーバナー>ハかンバナと変化したのである。この真紅の花を、私は戦争中まで、美しいとは感じなかった。私だけでなく沖縄人のほとんどがそうだったにちがいない。ハかンバナーはグソーバナ<後生花>といわれて、お墓に供える花であった。今帰仁などでは、仏壇には供えなかった。
私には、ハかンバナには悲しい思い出がある。小学校一年のときに、妹がなくなった。
熱が高く、大井川の医者にみてもらって帰り、妹は母の背中から首をのばして、今帰仁小学校の満開している桜を指さし、あれあの花よとにっこりしたが、妹はそれからまもなくなくなった。うすぐらい部屋で、なくなった妹を抱きかかえて狂わんばかりに泣きつづけていた。親類縁者もそのまわりに集まって泣いたが、泣きやまない母のそばで、私は母と二人で泣きつづけていた。まだ三才だった妹は、龕道具ではこぶでもなく、小さい棺に入れて白布でおおうてお墓へ送った。墓は、長浜の入口の左側の丘にささやかに造られた墓だった。お墓参りに行くたびに、ハかンバナを手折って来るのは私だった。その当時ハかンバナは代々ヤマービサー<山筆者>をつとめたナかーヂャとゥヤーとタナーバルという二軒にあった。
タナーバルは、寄留して来た士族で部落の西北端の部落はずれにあり、もう没落しかけていた。与那嶺にもう一つ、寄留した一家がある。タナーバルとは、ちょうど正反対の部落東南端に位置してヤマーちという。寄留民の家には、屋号にヤー<屋>をつけない習慣だったらしい。二軒だけはタナーバル、ヤマーちといい、タナーバルヤー、ヤマーちヤーとはいわず、百姓とは区別していたのである。
西北端に位置していたタナーバルは没落して、東南端のヤマーち一門は繁栄を極めている。
タナーバルの後には、もう家は一軒もなく、すぐ近くに、後のスくーミちの松並木が並んでいて、海鳴りがまぢかに聞こえる。そこから向こうは、部落の陰の世界であり、墓は海鳴りの阿旦の葉をゆり動かしている海岸べりにある。墓参のたびに、私はくぼ地にある没落しかかった士族の古い庭におりて行った。手入れも行きとどかない、雑草も繁った中に、ハかンバナーだけはあかあかと咲いていた。それを折って母のあとについて行った。
母は、墓に近づくと咽び、やがて墓の面につかまって大声で泣きさけんだ。墓の庭の小草を一つ一つぬきとりながらまだ泣いていた。私は竹の筒にハかンバナーをさして供えた。妹の喪は三年もつづき、その間、友達がいろいろにぎやかな行事を見物に行くときも、指をくわえて、母とともに喪に服して、ときどき、母についてハかンバナーを妹の墓前に供えた。ハかンバナーは、妹の墓につながり、母の深い悲しみにつながっている。
そんなことで、戦後、幾万人の血を吸うた、島尻の戦跡に、仏桑華の花がかっと真紅に咲いているのを眺めていると、悲しみのみがわいて、あの花が美しくは感じられなかった。後生にただよう妖気がまといついていたのである。
ところが戦後は至るところにハかンバナーが咲き乱れている。蒼くすんだ空にかっとかがやきゆれているのを見ると、その美しさに見とれる。
孫が朝おきると、私の手をひっぱって庭に出て、歎󠄀息するように大息ついて、赤い仏桑華を指さす。孫のかわいらしさが、そのまま花にかがやく。
花の美しさは、肉眼に見えて来るのではなく、心眼で自らがみつけているのだということをつくづくと感じさせられる。
▶原稿に(一九八〇・一〇・一八)の記述あり