琉球語の美しさ
ヂッぱ<かんざし>
ヂッぱ かんざし。 首里方言ではヂーファーという。
〔今帰仁与那嶺方言〕 〔首里方言〕
ナッぱー ナ-ファー <那覇>
いッぷ イーフ <流出土>
これらは、マち<松>がマーチ(首里方言)になる例外的な例である。マちはマーチから短母化したのかについては、服部氏はmaaci>maciと説き、金田一春彦氏はmaci>maaciだと説いて論争している。
ヂッぱ、ナッぱー、いッぷの例からすると、長音が先ではなかったかというような気がする。
ナンヂャヂッぱ<銀のかんざし>、キーヂッぱ<木製のかんざし>、ダきーヂッぱ<竹製のかんざし>があった。ことばとしては、クガーニヂッぱもあったのかもしれないが、百姓たちは、それを見たこともなく、昔物語に用いていたぐらいである。ふだんはキーヂッぱをさしていた。つげの木で作ってあった。ナンヂャヂッぱ<銀のかんざし>は持っているのは持っていたが、平素ナンヂャヂッぱをさしている者はほとんど見当たらず、何か行事やお祝いのときでなければささなかった。
私どもの中学の頃まで、首里にナンヂャヂッぱを作っているハンヂェーく<金細工職人>がいてカンぷー<ちょんまげ>を結い、狭い間口のみすぼらしい家でナンヂャヂッぱを作っていた。その職人がキーヂッぱを作っていたかどうかはよくわからない。
与那嶺のシヂマヌヤー<屋号>の門の目かくしに、つげの木があった。ヂッぱギーといっていたので、木のかんざしは、この木で作ることを子供のときから知っていた。
私が小学一年のときに妹ハナが死んだ。大井川の医者にみてもらっての帰りに、今帰仁小学校前の松並木を通ったときに、校庭に満開している桜を見て、母の背におぶられていた妹が眼を見開き、遠く桜を指さして母に示したという。あのときが、満面よろこびにみちた妹の最後の顔であったと、母はいつも涙を浮かべながら妹のことを話していた。
妹はまもなく死んだ。母のそばにいて、母といっしょにいつまでも泣いた。その時から母の髪にはつげの木のキーヂッぱの代わりに竹の細い枝を切ってさしていた。母が、自分でシーグー<小刀>でけずったものだった。喪に三年間服したが、その間、母の髪にはダきーヂッぱしかさされていなかった。農奴のように働き、いつも重い荷物を頭に乗せていた母の髪はいつも乱れていた。そのダきーヂッぱがいつもあわれにぬけおちそうになってさされていた。
仏壇の一番上段に真っ黒くなった小箱が置かれてあった。法事のたびごとに、はいあがって花生けの瓶をとりさげたり、その小箱のほこりをはらったりした。
その中にハーミヌフー<亀の甲>でつくったおおきなヂッぱがあった。いったい百姓があんな華麗なヂッぱをさしたのであろうか。曾祖母は美人であったという。あの曾祖母の髪にこんな大きな美しいヂッぱがさされていたのだろうかとも想像した。
祖母は呪女の家筋の出身であった。あるいは、その祖先の神女のかざしたヂッぱなのであろうか。それを思うにつけても、ははのダきーヂッぱがあわれでならなかった。
▶原稿に(一九八〇・一〇・一一)の記述あり