琉球語の美しさ
ユンヌユナーガとゥ ニンバランたン<夜なが眠れなかった>
トゥンガー<とぐら、炊事小屋>には土間になっているシくブー<土間>があった。そこにハマードゥがあり、サンメーナビ<三枚鍋>シンメーナビ<四枚鍋>が据えつけられてあった。小さい鍋は、そのそばの床のある間にヂヌ<地炉>があって、そこでガフ<自在鉤>につるして、おつゆをたいたりした。冬などは、そのヂヌのそばで火にあたり、ぴーバシ<火箸>で灰の上に文字をかいたり絵をかいたりしながらおそくまで物語りをしていた。
大鍋の据えられてあるかまどの後にはぴヌかンガナーシ<火の神様>が祀られていた。その上には棚が設けられて薪がつまれていた。
昭和十一年正月の五、六日だったか、折口信夫先生がお出でになったとき、生まれた長女に
あおりやえかみのとのちの いつきごに あにおとらめや よきむすめなる
という歌を添えて、おりえという名をつけて下さった。
そのとき、先生はぴヌかンガナーシをごらんになるために、うすぐらいシくブー<土間>におはいりになって、火の神をじっと見つめておられた。
シくブーでは臼によくお米を挽いていた。田圃にちりこぼれる米粒に鶏がたかった。生まれたばかりのひよこをひきつれて親鶏がやって来て、ひなに一粒一粒ついばんで与えていた。
出口にしきいがあり、そのそばに大きな水ための甕パンドーがあった。
米をついていたあム<母>がちょっと外へ出て戻り、しきいをまたいだときに、しきいの裏側にいたひなを踏みころしてしまった。先刻まで米をついていたときに、足まで来ていたひなであった。母はふみつぶされたひなを抱きあげるようにしてとりあげ、手のひらにのせて涙ぐんだ。
その夜ひと夜とうとう一睡も出来なかったと、私たちに話している。ユンヌ ユナーガとゥ ニンバランたン<夜の夜なが眠れなかった>というのである。今もその方言が耳底にこびりついて離れない。母は小学校も出ておらず、全くの無学文盲で、一字も解せず、標準語なども全くわからなかった。母のことばは純粋の与那嶺方言であった。ことばは厳密にいうと一語一語ちがい、同じ語というのはない。同一語をくりかえしても、その時その時によってちがう。厳密にいうと一回性のものである。私はあの時にいわれたユンヌ ユナーガとゥ ニンバランたンということばの中に、母の心のそこから出て来る悲しみを聞きとった。母はどこかさびしそうな顔をしていたが、その時の母のくもった顔を忘れることは出来ない。ことばはいつも生命とひとつながりである。生命の底からのひかりにかがやいている。
▶原稿に(一九八〇・一〇・三)の記述あり