琉球語の美しさ
カーラボーとゥー<さざえの蓋(ふた)>
さざえのことをぴーぴナーグイという。その語感はいいひびきをもっていない。それは私の少年の頃の思い出がまつわっているせいかもしれない。一人の貧しい老婆がいて、いつも海に行って、ぴーぴナーグイをとって貧しい暮らしをしていた。その庭に、うず高くぴーぴナーグイの殻がつまれていて、いかにもものあわれに感じられた。しかし、どの家でもぴーぴナーグイはとって食べていたので、その殻が庭にころがっていた。袋を肩にかけて、その殻を買い集めて廻り歩いている商人がいて、重宝がられもした。
海へ行くと、白い浜の渚に、無数にぴーぴナーグイの蓋がちらかっていた。表はまんまるくつやつやして渦が巻いて美しく、裏はふっくらとしてもりあがり、碁石などよりももっと美しかった。子供らは、着物の裾にたくさん拾って持ちかえり、おはじきにしたりして遊んだ。白い砂の上に、無数にちらかっている、この蓋をカーラボーとゥーという。カーラはおもろなどにも出て来る。「まがたま」の意の「かわら」ではなかろうか。ボーとゥーは、擬宝珠ではあるまいか。白浜の渚にちらばり輝いているあのまるい宝珠のような貝蓋に、こんな名がつくのは、ごく不思議ではない。
八重山ではあの貝蓋をツィキィガナスィ<月かなし>というようである。形がたしかに、満月ににている。おそらくは、白波のよせる渚で遊んでいる子供らがつけたのであろう。月はけっしてコンパスで描いたような円ではなく、まさしく浜にちらばっているあのまるい貝のふたにそっくりだ。子供の心の中にえがかれた月なのである。カーラボーとゥーを「勾玉宝珠」と名づけるのは、子供にはすこし無理のような気もする。仏教語もはいって後のことであろう。子供らがつけたとすると、勾玉鳩と解した方がよいかもしれない。いずれにしても、美しいことばである。あるいは鳩の名称か、奄美にカラハトゥがある。