琉球語の美しさ

パンドー〈水甕〉

戦前までは、どの家にもパンドー〈水甕〉があった。大方トゥンガー〈とぐら、炊事小屋〉の入口のそばに置いてあった。私の家には、大人二人でやっと抱えるぐらいの大きなパンドーがあった。戦後まで家屋もともに残っていたようだが、避難民の収容されていた羽地村田井等で、小屋を造るために、今帰仁までも来て残っていた家屋を一軒一軒くずして運んでいった。その残骸の中に大きなパンドーのかけらが無残にちらかっていた。今でなた博物館にでも飾っておけるようなすばらしいパンドーであった。私は、その破片をひろいあげながら、かつて終戦直後、首里尚家跡を訪ねたときのことを思い出した。首里は天文学的数量の砲弾をぶちこまれて、徹底的に破壊されて、一軒の家屋も残っていなかった。ただ首里教会の十字架ばかりが立っていた。うっそうとして昼なおくらかった四、五百年もたった繁多山の赤木も無数の砲弾をうちこまれて、まるで骸骨のように立っていた。龍潭池は万余の将兵の血がどす黒くよどんでいるように見えた。私たちは、龍?の西北に架かった世持橋に立った。海洋発展時代を象徴しているかのように、橋の欄干には美しい魚貝類の彫刻がはめられてあったが、それが足のふみ入れ場もないほどに散乱していた。(現在県立博物館に保管されている)尚家は、戦前は、自由には出入り出来ず、美しい庭をのぞくことさえ出来なく、屋内にはいることは許されなかった。日本建築の枠をあつめて造られたあの建物はすべて灰になっていた。たった一箇所に、美しい模様のある陶器の破片がうずたかく残っていた。おそらく冊封使の派遣されたとき中国からもたらされた?器で、尚家の家宝になっていた陶器であろう。首里にあったいっさいの文化財がこのようにこなごなに破壊されたのであろう。空は青く澄んで、廃墟の旧都は静まりかえって、人間一人もいない。空の光にかがやいている陶器の破片の花模様が目にしみた。
私は自分の家の破壊された跡に散乱しているパンドーの破片をみつめながら、心なき人々の無情にいきどおった。
このパンドーに水をみたすために、母や叔母たちは、朝晩井戸に水汲みに通った。やや大きくなってからは、私も天秤棒をかついで水をはこんだ。溢れるぐらい汲みいれたときはうれしかった。ぷシマーガー〈井戸の名〉から鮒をとって来て、こっそり鮒を飼っていた。
小学校で、中国の韓信の話をおそわった。子供が遊べるほどの水甕のふちがあって、友が誤って甕におちたとき、石でその甕をたたき割って助けたという話であった。パンドーのふちにふれるごとに、いつもあの韓信の話を思い出したりもした。
パンドーの置いているところはミヂヤーといい四角にかこって、下はたたきになっており、トゥンガーのシくブー〈土間〉から入口のしきいをまたいで、往来していた。
母があるとき、パンドーから水を汲んで、鍋に入れようとしきいをまたいだときに、生まれたばかりのひよこをふみつぶして殺してしまった。母はその晩は、一晩中寝られなかったと涙をにじませながら話していた。
朝おきるとミヂヤーに行って顔を洗った。ビンダレー〈金盥〉が出たのはかなり後であった。顔を洗うにはニブ〈柄杓〉で、片てのたなごころをすぼめて、それに水をそそいで、猫が顔を洗うようにして洗ったのである。
『全国方言辞典』「びんだらい 手水だらい。洗面器。宮崎、鹿児島、南島」
水に不自由な時代でパンドーは生命の源泉ともいえる大切なもので、パンドーは、心の奥にちゃんと座をしめているのであった。あの大きな美しいパンドーを思い浮かべるたびに、いろいろの幻想が浮かぶ。
われわれが子供の頃までも、木を縄でくくってキーシルー〈木を流れる水〉を縄に集めそれからつぼに流して溜めて飲んでいた。とくに茶の水は天水がよいといって重宝がっていた。
パンドーはかなりおくれて沖縄にはいって来たのであろう。
『全国方言辞典』に、「はんどがめ ①水甕 愛知県碧海郡・山口県屋代島・長崎・壱岐・熊本県南関 はんどーがめ 筑後久留(はまおき)福岡県久留米 ②留守番をしている者。長崎」とある。おそらく水甕そのものといっしょになって南島にももたらされたことばで、戦後のタンクと同じように用いられたであろう。
水は今では、自由につかえる。水がどれほど人間生活に密着しているか、われわれは、戦争ではじめて水のありがたさを知った。上代へさかのぼればのぼるほど、人間の生命と水とは、緊密(きんみつ)に結び結びついている。パンドーを思い浮かべると、生命にふれるような気がする。
▶原稿に(一九八〇・八・九)の記述あり

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