琉球語の美しさ
ハラーピサー〈はだし〉
われわれが子供の時分。大正の初期までは、大人も子供もすべてはだしであった。学校へも、下駄や草履をはいて行くことはなかった。海にすなどりに行くときは、自作のワラーグちー〈藁靴〉をはいて行った。子供が靴をはくなどということは、話しにも聞いたことはなかった。
正月になると、ソーグヮちハシヂャー〈正月下駄〉といって、部落の小さい店に那覇から(品物が)おりて来た。山原船が、親泊の沖の干瀬の切れ口、そこをちグーち〈津口〉といっていたが、そこからはいり、静かないノーに帆をかかげて、ナガーパマーのプナーフきーに帆をおろして、そこから正月用品をおろしたのであった。ソーグヮちハシヂャーといっても、お粗末なものですぐ紐がきれてはかれなくなった。古くなってしまうと、鶏の足にゆわいつけた紐にくくって、ひきずらせた。当時はトゥイパッとー〈鶏法度〉というのがあって、鶏の放し飼いは禁止されていた。古下駄をくくりつけられた鶏は、遠くまで歩けないので、屋敷外には歩けないから、禁をおかすことをしなかったのである。下駄というといつも、鶏の足に結びつけられた古下駄のことが浮ぶ。まるで圧政の下にあえぎ苦しむ百姓のすがたに似ていたのである。
大人も子供も年中跣足なので、どの家にもあナーガー〈穴井、屋敷内の小さな溜池〉があり、そこで足を洗って家にあがったのである。あナーガーと家の間には、ミャー〈前面の庭〉の上に、飛石がおかれていた。
冬になると、つめたいあナーガーの水で足を洗うのは苦痛だった。ときどき足を洗わずはだしのまま家にあがり、そのまま蒲団にもぐることがあった。夜になって、親に足をさわられて、洗っていないおとがわかり、たたき起されて、あナーガーへ行って足を洗わされたことがあった。
足の皮は象皮のようにかたくなっていた。石につまずいたり、釘がささったり、血のにじんでいることが多かったが、それでも、いっこうに平気であった。冬になると誰も彼もターリ〈あかぎれ〉がして、細かいまっかな血筋が足の表面をおおっていた。