琉球語の美しさ
あち<父>
私の部落に極貧の夫婦が住んでいた。小さな掘立小屋のわきに小さな水がめがあり、門を入ると蘇鉄の葉でつくった目かくしが立っていた。周囲には垣もなく、小さな豚小屋にいつも子豚ばかりが飼ってあった。そこのおじいさんは、棺を入れる龕道具の係りをしていた。体も小柄で見るからに貧相であった。ミスプスーと呼ばれていたが、このおじいさんの死と共に二つのことばが消滅したことを私はおぼえている。
一つは「あち」ということばであり、今一つは「サヂ」ということばである。
あちは父を意味し、今でも伊江島や宜野座村や恩納村あたりに残り、むかしは広く用いられたことばであった。ところがこれはちャーちャーということばに圧倒されて次第に貧民階級の父を意味することばになりさがった。ちャーちャーの勢力におされて、私の部落ではわずかにこの一軒だけに残り、あちといえばもうミスヤーヌ ぷーぷー<ミス屋のおじいさん>を意味することになった。私は久米島の比屋定にいった時も、アチということばが、人里はなれた原野に住んでいる或る百姓のおじいさんの固有名詞になっているような話をきいた。あち<父>とあム<母>は同等の格をもってつかわれていたにちがいない。しかしあムよりもあちの方が早くその格を落とし、ちャーちャーにおいやられてしまった。スーということばが首里から入るにしたがって、百姓の金持でも今帰仁では父をスーといい出していたが、あムを駆逐するあンマーというのは、百姓では小学校の校長さんの奥さんだけあンマーと呼ばれていた。遂に私の中学の頃まで、私の部落ではあンマーは一人しかいなかったが、大学を卒業して来た頃には、もうあンマーがかなりの家庭にはいっていた。
ミスプスーがなくなり、その息子が父を「あち」と呼べなくなってからはもう、あちということばは、この部落の人々の耳には聞かれなくなって滅びてしまった。
このおじいさんは龕道具の係をしていた。龕屋にいれる時は龕は解体してわくに入れておく。わくを藁縄でくくってかついで、よぼよぼとついていた。私はあの無表情の顔を忘れられない。その役目をサヂといったのである。サヂということばは「佐事」と書き役場の小使を一般にいうのだが、私の部落では、字事務所の小使はペーシーといっていた。死人があると木でできたはかりを持って、各家々を廻って芋を集めて、死人のある家へとどけていた。これをうムヌちャーセイといっていた。
このじいさんのこうした役目がサヂで、その後は、この役目をついだ老人はいたが、もうサヂとはいわなくなって、このことばも消えてしまった。貧者のともしびが消えるようで、棺おけがくちて道ばたに捨てられたような気がする。