琉球語の美しさ
ワくービち〈ひきがえる〉
ひきがえるのことをワくービちといっている。しかし今では、ひきがえるは谷間をさがしても、山を歩き廻ってもどこにも棲んでいない。私なども子供のときから一度も山野で出逢ったことはないが、そのことばはまだ自分の周囲に住んでいるかのように使っている。ヤマンシー〈猪〉だってそうである。昔は今帰仁の山だっていくらでも棲んでいて、農作物をあらしていたのである。おやどりがいたかづかはわからないが、あたかもいたようにヤマドゥイといっていたことを父や母から聞いたことがあった。実物はなくなってもことばそのものはいつまでも残っている。フミルー〈くいな〉は、田圃でいくらでも見つかった。稲刈りのころ、よくその雛をとらえて、足をゆわえてもてあそんだものだが、くいなはとうの昔にいなくなった。住んでいた田圃さえすっかりなくなっている。
ミヂガーミ〈みずすまし〉などは、何万何億と水面で、輪をえがいていて、どこでも見かけたのだが、今では全く見当たらない。静かな井の水面をみつめていると、幼少のころの水鏡に映った自分の顔の上をぐるぐるまわっていたミヂガーミの幻影が浮かぶ。われわれの周囲から姿を消してしまった小鳥や昆虫魚介類の数も限りなくある。それらの方言をしるしていると、まるで滅び行くものの亡霊にとりつかれているようにさびしい。ことばがまるで墓標のように林立している感じがする。かつては、実態がこの世で躍動をつづけていたのだが。しかしそのことばも、われわれの心にかわきをみたすに十分である。無限の過去へとわれわれをいざなってくれる。われわれの心の中に、過去は堆積しつづけている。