琉球語の美しさ

ちング〈苧をまるく巻いた物〉

私の祖母や母の時代までは、辻にあつまってユナービ〈夜業〉をしたようである。与那嶺の部落の中央に、ムンちャミミャーという広場がある。女たちは、その広場にあつまって、テー〈松明〉をたいて、そのあかりのもとで、ユナービをしたという。そこは、昼は馬を調訓するところでもあった。馬のタンナー〈手綱〉を握って、馬をぐるぐる駈けさせる。ムンちャミー くマースンといってた。それから来たのであろう、その広場は、ムンちャミミャーといっていた。
子供らにとっては、かっこうな遊び場で、夕方になると、ヨーネハシービにみんな集まって来る。やがて、ユフイ〈夕飯〉時分になると、ヒけーヨー こッホイといって、ふくろうの鳴きまねをして、各家々にわかれて行った。そのあとは、ニーセーたー〈青年たち〉があつまり、三味線をひき、モーハシービの前奏曲をかなでる。
おそらくその頃から、島の女たちは、火をたいて、そこでウー〈芭蕉糸〉をつむいだのであろう。
もうわれわれの子供の頃には、女たちが火をたいて、ユナービをすることはなかった。うすぐらい四角の石油ランプのもとで、祖母や母や叔母などがあつまって、夜おそくまで、苧をつむいでいた。苧をいれるざるは、ウンヂョーきといい、ぐるぐるまいたちングを欠けた碗にひたしていて、それから一本一本紐のようになった芭蕉をとりだして、細い繊維をつむぎ出して行くのである。目にも見えない細いせんいをつなぎながら、シーグー〈小刀〉でつなぎめののびたせんいを切っていた。昼間の重労働に疲れながらも、夜は夜で、苧をつむいで、家族皆の着物をつくっていた。そのためであろう、母は三十代の終りごろから眼をわるくしていた。家族も多かったし、みんなの着物を織って着せるのは、並大抵の苦労ではなかった。
母は部落で評判の、ヌヌーうイヂョーヂ〈布織り上手〉であった。カラコロと織っている機のおとが遠くまでひびいた。

糸芭蕉の畑はどの家でも持っている。与論では、嫁にやるときその畑をつけてやったと、故老に聞いたことがあった。おそらくは、沖縄でもそういうことがあったであろう。糸芭蕉のかげは、子供にとってはいい遊び場所であった。夏の炎熱をそのかげで凌ぐ。青い葉を敷いてはままごと遊びもした。切株からはしぶがとれた。少年たちは、ちガー〈三味線の胴〉を紙ではりそのしぶをぬって、各自が自製の小さい三味線をつくって弾いた。
隣組の女たちが集まって、糸芭蕉を倒し、幹を一皮一皮はがして、シンメーナビ〈大なべ〉に煮て、それをとりだして、竹くだでしごいて繊維にした。その紐状の繊維は、ぐるぐるとまりのように巻きつけて、いくつも糸を通してつるしてあった。毎晩、女性たちは、そのちングをこわれた碗の中にひたして細い糸にわかちつないで、ウンヂョーき〈苧を入れたかご〉につんで行くのであった。その仕事はめいるような気の長い仕事であったが、女性だちの細心なはたらきが、ほそぼそと、夜となく昼となくつづいたのである。
私の郷里ではちングは糸をまるく巻いたものの名にしか用いなかったが、ところによっては、蛇のとぐろにも用いている。
ちングはチュグルの変化であり、トグロに通ずる。長崎・鹿児島では、蛇のわだかまること。「とぐろ」「つぐら」という。(鹿児島県肝属郡「つぐろ」)とぐろの変化である。
乙女らのかがやく「つぶらめ」も同じ語なのである。(tsugura>tsubura)蝸牛の「つぐらめ」も、柳田国男の説いているように、まるくまいているところから名づけた名称である。

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