琉球語の美しさ
チャー ワかースン〈茶をわかす〉
山原の寒村でも、老人たちは、今でも、「チャー ワかースとゥ フーヨー」〈茶をわかすから来いねー〉といっている。それはただ茶をわかすという意味ではない。ちょっとしたお茶請を作り、ふるまいをしあげるから来いよという意味である。
むかし、向象賢は、島津入後、新しい政治をしようと、琉球語と日本語と同一語であることを強調して、琉球人が日本民族と同祖であることを説き、大和芸能を奨励した。茶の湯もその一つにはいっていた。その後、沖縄人も、茶の湯をたしなむようになった。
昭和二十五年頃文化財審議委員が、久米島に行き、上江洲家を訪ねたとき、ご主人が、古い箪笥の中から、すばらしい立派な茶器一式をとり出して見せてくれた。それは、首里天加那志から賜ったものであるという。久米島のような辺鄙な島でも、豪農たちは茶の湯をたしなんだことが知られた。首里には御茶屋御殿があったし、首里士族たちは、われわれが想像している以上に、日本趣味を身につけていたのであろう。
チャー ワかースン〈茶をわかす〉ということがちょっとしたふるまいをするという意味を持つことは、あきらかに、茶の湯と関係がある。もとより、山原あたりの土百姓が、茶の湯をたしなんだはずない。首里でつかわれたことばが、ただことばとして、地方にひろまっただけである。山原の老人たちのしゃがれ声で発している、チャー ワかースンということばの中に、ちょっとしたふるまいをするという、茶の湯のみやびなひびきをつたえていることはゆかしい。