琉球語の美しさ
ミンちき〈見付け〉
首里方言では、ミチキは、(1)鑑定、(2)診断、(3)見込みなどの意味を持っている。ところが、今帰仁では、そういう意味はなく、みつけ出す意に用いられる。百姓が野山で、草を刈り、きこりが山から木をきり出す生活とも密接にむすびついて、いきいきしている。
きこりが山にはいり、かつて村人たちの足をふみいれたこともない山にはいりこんで、誰もこれまで気のつかなかった木を見つけたり、草刈りが、誰も知らない草刈り場を見つけ出したり、めずらしいまぐさや草花を見つけたりすることをミンちきという。この語感には、誰にも気づかれずに、大切にそっとしておきたい気持ちはたらが含まれている。前人未踏の地であるとか、あるいは人々が通っていても、つい見すごしているところとかに、ひょいとめずらしいものを見つけて、人知れず喜び、それを知られずにそっとしておきたい、知られることを心ひそかにおそれるそんな複雑な気持ちがふくまれている。野山に働くものの小さな発見であり、それをそっと大切にしておきたい喜びである。死の危険をおかしても、奇岩をとじのぼって行く若人も、あるいはミンちきににた気持ちにかりたてられているのかもしれない。野や山に生活している者にとって、ミンちきは、一つのたのしみにちがいない。百合の花が、思いもよらぬ岩かげに群生しているのをみつけることは、ミンちきである。いつか人とつれだって来てあっと言わせたい。しかし他人には知られたくはない。
寒風の吹きすさぶ冬の日、蓑笠をつけて利鎌をかざして、棒に蕃(もっこ)をかついで、まぐさをかりに田圃へ出る。畦をいくら歩いていても、枯草ばかりであった。からっ風が蓑笠に吹きつける。冬草をかり集めてもいっこうに蕃にみたない。そうしたとき、風のあたらない丘べのかげに立寄って見ると、夏草のように茂ったくさむらがある。ちゅかーたミ〈ひとかつぎ〉刈りてもまだあまる。これすさぶ田圃の畦を歩いていても気がはずむ。草刈りのたのしみの一つであった。野には到るところにミンちきの場所があった。