琉球語の美しさ
うムヌちャーシー〈芋をつのり集めること〉
死人が出ると、親類縁者はすべて仕事を休んで、喪に服した。三日の間、喪家に集まり、朝と昼の二回、墓参りをして、あとは、部屋の中でカたーヂー〈片肘〉をかけて、横になっていた。
食事の準備も喪家ではしないので、部落中から芋を集めてとどけた。うムヌちャーシー〈芋をつのり集めること〉といった。そのほかに、女たちが、ごくうすい粥をたいて、芭蕉の葉をかぶせて、とどけた。粥には、栗のまじったときもあった。久高島のイザイホーのとき、ナンチュたちは、兄弟とサルマユー〈米をといてお粥状にしたもの〉をとりかわす。そのユーと何か関係がありそうである。宮古でも、お粥のことをユーというようである。
芋を集める役はきまっていた。棺を入れる龕道具を解体しておさめる枠組みを、藁でゆわえて持ち、葬列の一番後ろからついて歩くよぼよぼした老人がいた。サヂ〈小使い〉といっていたがもともとは、もっと重要な役割をしたものの名称ではなかったかと思われたが、いかにもみすぼらしいかっこうをしていた。このサヂが部落の一軒一軒を廻って、自分でつくった粗末な木のはかりで芋をはかり、天秤棒で、芋のはいったざるをかついで、集めまわていた。このおじいさんのことをミスヤー(屋号)ヌ あち〈親父〉といっていた。あちは、父の意だが、一般には、父はちャーちャーといい、あちとは言わないで固有名詞のようにつかっていた。このおじいさんが死んだ後は、あちということばは、もう与那嶺からは消えてしまった。
私は、按司はこのあちだと思う。『豊後風土記』に「祖邑阿自」があることを、金久正氏が気づいている。アチは今帰仁方言ではあちだから、服部四郎博士の説に従うと、上代はアーチで長音だと考えられる。アーチからあンヂには変化しうる。按司は決して漢語にあてた後の変化ではない。
中央では、アチが王の位置までたかまっていったのに、地方では次第に格さげされて、貧家でのみ父の意に用いられて、貧家消滅するとともにアチということばまでが消えてしまった。ことばが、社会によって変化する好例である。葬列の後について、ふらふらしてあるいていたミスヤーヌあちがいつもまぶたに浮かぶ。