琉球語の美しさ
ウーバたーき〈芭蕉畑〉
糸芭蕉を植えた畑。どの家もウーバたーきを持っていた。私の家は、嘉手苅という商店の使い水の流れて来る傾斜地にウーバたーきがあったので、とくに肥沃で、ずいぶん高い芭蕉が伸びていて、そこから母が、糸芭蕉をきって来ては、皮をはがして、大釜で煮て、繊維をとった。その作業には、となりの近所の女たちも加勢に来て、いっしょに煮しめた芭蕉をくダー〈竹管〉にかけて、繊維をとっていた。とりのぞかれた芭蕉のくずは、蜜柑の木の根に肥料としてとりまいた。私の生涯で一番最初の記憶は、母や祖母が、隣の女たちと、その作業をしていた情景である。たしか四才の頃だった。弟をおぶった子守りにつれられて、隣部落仲尾次の村芝居の稽古を見に行った。用便を催して、子守りをうながして帰ったが、もう着物をよごしていた。母は仕事の手をやめて、いたわりながら、着物を脱がせてくれた。あの母の顔が、私の生涯で、いちばん古い記憶であり、また最初の印象であり、いまもあざやかに残っている。
芭蕉畑と女性とはかたくむすびついていた。家族の着物をすべて自らつむぎ、織って着せなければならなかった女性にとって、もっとも大切なのはウーバたーきであったのである。
かつて与論島を訪ねて、立長に住む、増尾という八十余才の爺を訪ねたとき、島では、娘を嫁にやるとき、必ず芭蕉畑をつけてやったと語っておられた。おそらく、沖縄でも、そうだったにちがいない。