琉球語の美しさ
ユかッちュ〈士族〉
沖縄では、士族のことをユかッちュ〈善か人〉という。形容動詞のカ型が化石のように残存しているのである。まるで士族の落武者達の遺跡を見るような感じだ。
昭和二年、私は東村を旅行して山路を歩いていた。有銘をすぎ、天仁屋に向かう途中、崖のわれ目から、わずかにしたたる岩清水をくんでのんでいたら、通りかかった村人が、親切に「御茶を上げましょう」と家へさそってくれた。案内されたのは山家の一軒家であった。柴垣の門を入ろうとすると、ひよっと私に耳うちされた。首里から来たとは言ってくれるなというのであった。私はもともと山原の今帰仁の出身であり、首里と関係がない。その山家は清楚でどことなく住いは風雅であった。新しいむしろをしいてむかえてくれた。まもなくお茶が運ばれ、お茶請けが出た。しばらくして庫裏から、八十ばかりの高貴な美しい白髪のおばあさんが出て来られ、入墨のしてある手をついてつつましく御辞儀をされた。その物腰にはおかしがたい気品があり、そのことばはまぎれもなくみやびな純粋の首里ことばであった。まるで能舞台のようで、私はこの老婆の美しさにうっとりとした。首里ユかッちュの末路であり、さっきの注意がやっと読めた。おちぶれたこの姿を都の人だけには見せまいというのであった。廃藩置県当時、首里の多くの士族は、この老婆のように、山原のヤードゥイ〈屋取〉におちて行き、なれない鍬を握って開拓に疲れて老いて行った。今帰仁でも、山手の方から、縞のやや大きなよれよれの絣をつけた老婆が杖をついておりて来るのをよく見かけた。着物の縞で百姓との見分けはすぐついた。島人は士族には一種の尊敬を払って目下にもユかッちュクとゥバで対応し敬語をつかっていたが、それはしかし敬意を表すことばというよりは、相手に調子を合わせているというに過ぎなかった。士族としての誇りを失うまいとする努力はつづけられているようであったが、もぬけのからみたように虚勢しか感じられなかった。着物のがらの大きさといい、我々には「善カ人」からは没落して行く士族の映像しか浮かばず、首里親国の人々の感じとは雲泥の差があった。