琉球語の美しさ
あッちュン〈歩く〉
あッちュンは歩くの意味のほかいろいろの意味がある。ユー あッちャッちュミ〈よく歩いて歩くか〉は元気でやっているか、という意味になる。ガッこー あッちュン 学校に通う意味になり、あッちェイ あッちェイ スン〈歩き会い歩き会いする〉はよちよち歩きする、方々歩き回る意になる。
補助動詞として他の動詞の連用形について動作を継続している状態を表す意味にも用いられる。
メーニち パたーラちャッちュン〈毎日働いて歩く〉。毎日働いている意。
山仕事をすることはヤマー あッちュン〈山を歩く〉。海ですなどりをする意にうミ あッちュンという。
ボクシングのチャンピオン具志堅用高は十回の防衛戦を見事にKO勝ちをして世界選手権を持ちつづけている。彼がテレビのインタビューで、君はボクシングをやらなければ今頃なにをしていたかと問われて、「海を歩いていただろう」と答えた。おそらく質問者に意味は通じなかったであろう。島生まれの素朴なはだかのままの具志堅の人柄がむきだしに出ていてほほえましい。教職員のわらいもそそるであろうが、むしろ快感さえ与えた。終戦直後ある教諭がこのような使い方のことばを不正語として不正語表を作って沖縄教職員大会の国語部会で発表し、ひんしゅくをかったことがあった。それは決して不正語として決めつけるべきものではなく地元の方言である。海に行くと言って通ずることは通ずるが、正確にはうミ あッちュンで訳しようもないニュアンスが伴っている。海にもぐって魚をとることもいい、干瀬の上を歩いて蟹をさがしたり、たこ穴をさがしたりしてやはり海の中、海辺を歩き干瀬の上を歩き廻り、貝をあさり、海へ船を漕いで網をうち、すなどりをすることも、海で手足を動かしているあらゆる動作を含んでいるように思う。
わらじを作りそれをはいて干瀬や海の中を足でふみあるいて行くというイメージも誘っているのであって、すなどりをするということばだけでは表現もできない膨らみを持っている。
具志堅用高のあの15K(タイトル防衛回数)にも足らないが、祖先歴代困苦にたえぬいてきた。祖先伝来苦しみにたえぬいて来た強靭(きょうじん)なすじがきたえにきたえられてますます強じんになって世界一になっているのである。自己に潜在する祖先伝来の素質を十二分に伸ばしたものである。自己のあるものをいっさいすて去って新しいものをひきいれようとする者にはそういう力をはっきすることも出来ない。自己に与えられたものを最大にいかし伸ばすことをわれわれはしらねばならない。
海を歩き貝を拾い、たこをつきあるいは海底にもぐり岩をふみ、あなにひそむ魚をつくとき、海をくまなく歩いたと想像される。そう考えるとうミ あッちュンというその具志堅のことばには先祖代々の海とのかかわりも一語の中に短縮してふくまれているのかもしれない。